カフカ「断食芸人」

「断食芸人」に、僕は、僕の好きなカフカの作品「変身」「審判」にも共通する独特のユーモアを感じた。
それは、読者がおそらく小説の読み出し当初に当然に疑問に感じるはずのディテイルを、はっきりさせないままに泳がせている点だ。

「変身」の冒頭でグレーゴル・ザムザは、ある朝眼が覚めると自分が昆虫になっているという事実をある種当然の帰結として受け入れてしまうが、どうしてそんな事態を素直に受け入れられたのかという冒頭で感じる疑問は、まるで解決されることはない。
「審判」では、ヨーゼフ・Kが殺されなければならない理由は最後まで示されない。

「断食芸人」においてもまた同様である。
この話では、はじまりにでてくるフレーズで断食芸人の芸はそれ以前ほど人気のあるものではなくなった、と述べられた上で、「けっこうな実入りにありつけたものだったが」と、まず、断食芸人の物質的側面が強調される。
しかし一方、ストーリーは芸人の精神的満足獲得のための格闘の描写に終始しており、この芸人にとって物質的な事由がどう重要だったのかということについてはどこまでいっても明らかにはされない。芸人は、話の最中、ほとんどの時間を藁が敷かれているばかりの檻の中で過ごしている。サーカスとの契約においても、芸人は、物質的な契約条件には目をやることもなく、自らの芸の披露の機会と自身の尊厳とだけを重視するばかりだ。
そうして、冒頭の物質的な印象はどこにも昇華されないまま、ついに読者はこの短編を読み終えてしまう。

例えば、もしも仮に「断食芸人」の冒頭が「けっこうな実入りにありつけたものだったが」、「よい儲けになったものだが」という類でなく、「成功するとしたものだが」等の特別物質を意識されないような表現であれば、この作品からかげる匂いは、わずかに「芸に生きる人間の生き様」という程度のことばかりであったろうと思う。
彼は、何故作品を通じて具体的には語られることのない物質を冒頭に持ってきたのだろうか?

もちろん、作者自身は、詳細か曖昧かは別としても何らかの形で描かれなかった部分についての概念は持っていたはずだ。
「断食芸人」は、もう過不足なく完成している。おそらく、分かっていて書かなかっただけのことだろう。必要ではなかったのかもしれないし、書かないほうがよかったからなのかもしれない。
しかし、いずれにしても、そのすぐれた描写力によって他のディテイルが明らかになっているだけに、何も語られない部分はひとつの作中のエニグマとして読者の中に残る。そして、それがまた彼の作品独特の世界を一種の不条理に満たされたものにし、そして不可解かつ魅力的なものにしている。

「属性」。
これらのカフカの作品を読み進めるとき、やはり僕には、この言葉が意識に上ってしまう。
彼は第1次大戦までの時代をドイツ影響下のユダヤ人として生き、若くしてて結核を患い官僚社会からドロップアウトした、想像力と特殊な文才に恵まれた一種の天才であった。
彼はユダヤ人としては精神的に国家に帰属せず、病める人となることで社会的にその地位を失い、その一方で比類なき能力を持っていたために世俗に沈んでいることにも安寧としていられなかった上に、残念ながら、望んでいたようには小説家として物質的に成功することもなかった。

平凡な日常を生きる世俗の勤め人にある日訪れる不条理な属性の変化とそれが起こす自身と周辺の騒動が「変身」、「高度に組織化された社会でドロップアウトした者の必死の復帰の努力とその挫折を描いたものが「審判」であるならば、その死の直前に発表された「断食芸人」は、個人としての天才が感じる才能と挫折、彼自身の創作の才能への愛、自身を芸を崇高な域まで高めたいと願いつつも、結局叶うことのなかった無念さの表現だったのではないか、と僕は思うのである。

「断食芸人」では、芸人は、常人であれば誰でも持つはずの食物への嗜好という、いわば生命維持のための必須の能力を決定的に欠いており、逆に、それを自らの特殊能力として生きている。そのとき、芸人ははっきり世俗の人間であるのに必要な属性を失っている。そして彼は、その特殊能力のいくらかを世俗の興味のために活用すれば世俗的な満足を得ることができた。

ある社会的変化をきっかけに、彼はいつか自身を世俗の制限から開放し、その芸を自身が認め得る崇高な域にまで高めようと試みる。その動機はけっして世俗的なものではない。
しかしながら、同時に芸人は、あくまでその披露の場所を求めている。世間が自分の芸を真に理解することはないだろうという絶望を感じつつも、なおも彼は自分の理想追及の過程をまた「芸」の一環として世俗に開放し、そしてまた世俗的価値を得ることをも望んでいる。
この作品の最大の楽しみは、一種求道者的な芸人の振る舞いに併存する、その世俗性だと僕は思うのである。
そして、僕は、そういった「芸人」のあり方に、特殊な文才と想像力に恵まれ、同時に生命維持のための基本的な嗜好にも欠けていた一種の天才であった作者カフカを重ねてしまう。

「断食芸人」を芸の追及という形而上一辺倒の物語にすることなく、わずかに冒頭に一文のエニグマを残すことにより、世俗に生き、成功を求める天才の物語として仕立て上げた晩年のカフカ。
僕は、この作品の読後に、才能を自覚し、芸を広く公開し世俗を楽しませることに意義を感じ、同時に名誉も望んでいた彼の姿をそっくりそのまま思い浮かべてしまうのである。
自身の能力を強く自覚し、創作のために多くを犠牲にし、そして自身が認め得る優れた作品を創っておきながらも、それに見合う待遇も得られず、死の直前には極寒の欧州の冬を耐貧生活のどん底の状態で過ごしていた肺病病みの彼の心境は如何ばかりだったか。

僕は、作品の冒頭だけにわずかに置き去りにされた物質に、自らの作品群を通じて得られるべきであった物質への彼の欲求、それによって得られたはずのその先の時間、続けて書かれるべきであった作品群への無念をこめた、自らの死を直前にした特殊な芸人のちょっとしたユーモアを感じるのである。

03/07/03


このテキストは、 ある活字中毒患者の告白読書会企画 に向けて書いたものです。


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