オバQ再考


前にも書いたけど、僕はオバケのQ太郎がすごく好きだ。


Qちゃんが、正ちゃんと「たからくじをやろう。」という企画を思いつく。でも、そんなに大掛かりなことはできない。

そこでどうしたのかと言うと、まず、彼らはどんどん宝くじを作って配っていった。

当選発表をする、と言って、皆を集める。
「○○番は○○万円もらう。」
「○○番は○○万円あげる。」
なんて言って、どんどん当選発表をしていく。
「もらう」と「あげる」が何かちょっと違うのがひっかかるけど、とりあえずいいか、と集まったみんなが思っていると・・・

「『あげる』」の人が『もらう』の人にあげるのです。」
と、Qちゃんと正ちゃんが宣言して、「払え」「払うか」と大パニックになってそのネタは終わる。


正ちゃんが、月まで行きたいな、という話をする。Qちゃんは空を飛ぶことぐらいはできるけど、とてもじゃないけど、一人で月までは飛べない。

そこでどうしたのかと言うと、3段ロケットを作って、Qちゃんの力だけで月まで行けるぐらいにとりあえず空高くまで飛ばそう、ということになった。Qちゃんが一番上の3段目のロケットの推進力になるのだ。

まず、風船やら花火やら(だったかな?ちょっと記憶にない)を買い集めた。1段目のロケットの推進力にするのだ。

街を歩いてなにか他にも何か動力源がないか、と思ってQちゃんが探していると、小池さんに出会う。彼はラーメンのことで頭がいっぱいで、非協力的だ。

話をしていると小池さんが、ラーメンにコショウを振りかけたはずみで大きなくしゃみをする。Qちゃんはおもいっきり吹っ飛ばされる。
Qちゃんはそのくしゃみのパワーに驚いて、小池さんにロケットの2段目に入ってもらい、ラーメンを用意して、最初のロケットの推進力が落ちたところでラーメンにコショウをかけてもらってくしゃみをしてもらおう、と思いつく。

ロケットの筐体は正ちゃんが作ったのだったかな?
宇宙食が必要だ、ということで、よっちゃんに歯みがき粉の練りチューブにいろんな食べ物をつめてもらったりもして、入念に準備をした。

「ラーメンがある。」と言って小池さんをロケットに誘い込んで、ロケットは発射した。

2段目のロケットの推進力を発揮させるようと思う前に小池さんがラーメンをすでに食べ終わってしまう、なんていうトラブルもあったりして(それが原因ではないのだが)、月まで行く計画は結局失敗してしまうのだが。


このマンガの何がおもしろいって、その工夫である。
もちろんギャグマンガだから科学的には問題のある設定なのだが、手元にある素材を上手に使って、とにかく、いろいろ考えて、あるもの、できることでなんとかしていく。そこがおもしろいのだ。

とりあえず泣きわめけば自分の要求を満たされる道具が出てきて、あとはそれを使って遊ぶだけ、という「ドラえもん」なんかとは、読み応えが違う。オバQでおもしろいのは、何かを達成するまでの過程と、達成した成果をその後に楽しむ一連の経緯が併存しているところだ。

Qちゃん自身もとても魅力的だが、脇役もそれに負けずに非常に魅力的だ。カミナリさん、ドロンパ、ハカセくん、キザくん、U子ちゃん、O次郎、P子ちゃん、小池さん等、いちいちどんな人物なのかはここでは紹介しないが、いずれすごい個性に溢れたオールスターキャストだ。

オバケのQ太郎は、本当におもしろい。藤子不二雄のマンガの中で、僕の中では文句無しにピカ一だ。


そう思うからこそ、僕は、どうして「ドラえもん」のほうがあちこちでよく読まれているのか、いつもギモンだった。
単行本の量が多いのは、話の作りやすさ的に言って当然なのだが、むしろ僕が不思議だったのは、あれほどまでに流行った理由だ。
どうしてなのだろう、とこのあいだ考えてみた。


「ドラえもんには夢がある。」
ドラえもんのファンからは、よくそんな言葉を聞く。
要するに、できそうにないことをなんでも可能にするからだ、と。

そのことがそれなりに魅力なのは分かる。でも、僕からみれば、「ドラえもん」の魅力というのは、百貨店と同じものだ。
そこに頼ればなんでもある。とりあえずすべて解決してしまう。

つまり、「ドラえもん」の魅力は、「ドラえもん」が抱える「モノ」の魅力だ。
モノが溢れているから、のび太はドラえもんに頼る。
すでに完成したスキのない道具を与えられて、のび太がそれを使って遊んで、話は終わる。


ドラえもんの成立した年代を考えてみた。
60年代?だったと思う。高度経済成長のころだ。そのころ、日本人の誰もが、豊かになりモノがあふれる社会を目指して邁進していた。次々にモノが出てきだして、もっと豊かになりたい、人々はもっとモノが欲しい、と思っていただろう。子供の遊び道具も、どんどん進歩しはじめていったところだったのだろう。(僕はその場にいなかったので確信はないが)

「ドラえもん」は、要するに、高度経済成長期の象徴だったのではないか、というのが僕の結論である。
モノが溢れ、これまで想像もできなかったようなことがモノにより達成される、そんな時代への渇望と、「ドラえもん」が満たす「モノ」への欲求がマッチしていたのではないか、と。

その後、豊かになりたいと強く望む東南アジアの子供を中心に、この百貨店の物語は読まれていった。
日本の渇望感は、そのままの形で他の国の渇望の渦に輸出されていったのである。
モノが欲しい、と思い成長を望む多くの社会の多くの人の間で、その後ドラえもんは読まれていった。


今の日本の子供にとって、「ドラえもん」は魅力のあるマンガなのだろうか?

「ドラえもん」は相変わらず金曜日にテレビで放映されている。藤本先生が書いた遺稿はまだまだたくさんあるらしく、原作の連載もあいかわらず続いているようだ。

今日の「ドラえもん」の読者たるべき子供の親の多くは、「ドラえもん」を読んで育った世代だ。
「ドラえもん」はすばらしいマンガだ、「ドラえもん」なら間違いない、と思っておくことは、親にとってとりあえず無難な選択だろう。親がよいというなら、子供もとりあえず理屈抜きによい、と思うだろう。財布を握っている親が無難だと思っているなら、出版社にとってもテレビ局にとってもおそらく無難な選択だ。

「すばらしくない」というつもりはない。
ただ、僕はちょっと疑問に思うのだ。

例えば、今の日本の子供にとって、「ドラえもん」は、魅力的なキャラクターなのだろうか、と。
今の子供が望むことは、いったい何だ?


僕は70年代に生まれて、80年代のはじめに「ドラえもん」に出会った。僕もたくさんの「ドラえもん」の話を読んだ。
そのころ、誰も「ドラえもん」を疑う人はいなかった。当時の僕も、当然そうだった。
でも、僕は「ドラえもん」もよく読んでいたが、「オバケのQ太郎」もまた好きでよく読んでいた。
当時の僕は、自分がどのマンガがどうして好きなのかなんて、まるで考えていなかった。ただ、おもしろかったから読んでいただけである。

何度も書くけれども、僕はオバQが好きだ。オバQには、百貨店での買物的達成にはありえない、過程を楽しむこと自体の魅力がある。
時代の寵児であった「ドラえもん」ほど読まれるべきであった、とまで言うつもりはないのだが。

01/06/02


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