死者の理由


Oさんの手術が昨日あった。

僕は、彼が手術から帰ってきたのに気がつかなかった。彼はいつのまにかにもうベッドに横たわっていた。ようやく僕がそれに僕が気がついたのは、彼のベッドの上に点滴のパックがぶらさがっていて、そこからベッドのほうに管が伸びているのが目にとまったからだ。
午前中、見慣れない人が彼のベッドをいろいろいじっているなあとは思っていた。それは、彼の奥さんだった。彼は、遠くに住んでいるのに、わざわざこの病院を選んで手術をしてもらいに来たということだった。
彼女は、彼が朝早い時間に手術のためにストレッチャーで運ばれたあとこの部屋にやってきて、いろいろな準備をしていたようだった。そうして夕方になると、彼の横で患者が食事なんかに使う机につっぷして寝てしまった。

昨日の彼はほとんど生気がなかったが、今朝の彼は健気に元気だ。
同じような手術を両足交互にやった、ということで、彼のまわりのアイテムは昨日から、すべてこれまでと左右逆に配置されている。机、テレビ、手元の小さい収納ボックス、もちろんベッド。すべてだ。
これでまた、何週間も彼は自由が効かない。もっとも、前の手術からまだ時間も経っていたわけではなくて、この手術の前もかなり自由が効かない状態ではあったのだが。
術後の痛みを和らげるために、脊髄に管が入っていて麻酔になっているとか、そんな状態らしい。


何日前だったか、僕は、手術後は痛いのかという質問を彼にしたことがある。
M君が手術後でイタイ、イタイとさかんにボヤいていたころのことだ。

「最初何日か脊髄に管が入っていてその間はそうでもなかったのだけど、それが外れると痛くてね。それで、点滴で麻酔がどうで、他の薬がどうで、あれがこうして、これがこうして。それでまた痛くて。」

そんな感じで彼の話は続いたのだが、途中からは分からなくなった。
あんまり痛い話が続くので、僕のほうが聞き取れなくなったのだ。僕は人が痛い話は苦手だ。

おとといだか、その前の日だか、NさんとOさんが話すのが聞こえた。
Oさんはとある頃からとある病気にかかってしまって、やむを得ずステロイドを飲んでいた。今は免疫抑制剤も飲んでいるらしい。飲まないと死んでしまうかららしかった。
それで、飲まないと死んでしまう薬を飲まされる副作用の一環として、こうしてしたくない手術なんかするハメになってしまっている。
今日の彼の表情なんかを見ていると、よくもまあそんな状況でこれだけ平静にしていられるものだと僕は思う。昨日は術後の麻酔の効きもあってようやくロレツのまわらない発言が聞き取れるだけだったが、今日の彼は、僕の知っている平常時のときの彼とそんなに変わらない。

NさんとOさんの副作用話は、イヤな話だった。2人の話ともに実体験に基づいている。科学的かどうかとか客観的かどうかとかいう点ではかなり疑問符がつくものだったが、とりあえず生理的な説得力があった。
僕は、彼らの話が早く終わって欲しいと願いながらも、結局最後まで話を聞いてしまった。
気になってしまうのでつい聞いてしまったが、聞いているうちに僕は次第に憂鬱になった。


「考え様によっちゃ、生きてるだけでもうけものだからね。」

Oさんは、そんなようなことも言っていた。前の病院の先生にそういう趣旨のことを言われたとか、そんな話だった。そういう解釈が合理的なのかは僕には分からない。が、とにかく、彼は薬の効果で、とりあえずは生きている。
この先医学の進歩で彼が今より楽になるのかどうかは、僕には分からない。

「悪いところは治さなきゃいかん、体は健康に保たねばならん、長生きするように努力しなければならない、などというような偏った(と自分は思う)価値観に染まっているところもこわい。」

友達から、そんな内容のメールをもらった。彼が言っていたのは病院のことだ。

そりゃあ何も問題なしで生きていられれば、それがベストだろう。
でも、いつまでもそうはいかないものだ。人間いつかは何かの事情で死んでしまうし、死んでしまう前には必ずバランスが崩れる。


もしも、もっと別の形で今の病気になってしまったら。
僕はそんなことを、やっぱり自分の身になぞらえて考える。

例えば、僕がもしも江戸時代の山あいの農村に生まれていた場合。
僕がむくみだしたら、まわりの人は何を思っただろうか?
とつぜんぶくぶくと太り出してそのうちに寝込んでしまう僕を見て、村人はどう思っただろうか?
仕事はしなくなって、寝てばかりだ。ゴクツブシだ。
「アイツは山奥で天狗の鼻を握ったからこうなったのだ。」
なんて言われるかもしれない。どっか人目につかないところに運び出されて、そのまま体に水が溜まりすぎて、心不全か呼吸困難か、あるいは腎不全か何かで死んでいたかもしれない。

平安時代の貴族であったなら。
何某の呪いだ、とかいう話になって、祈祷師なんかが呼ばれるのだが、寝たり起きたりをくりかえしているうち、結局これも腎不全かなんかで死んでしまうだろう。

アフリカのどこかのあんまり文明的でない部族だったら。
悪魔の祟りだとかいうことになって、ヘタしたら同じ家に住む大家族ごと焼かれてしまうかもしれない。
実際に、アフリカのどこかではそういう習慣がある。原始的なヒステリーのようにも聞えるが、これはこれで、エボラなどの強力な感染力を持つウィルス等を村全体に蔓延させない効果があったらしい。
訳の分からない症状には、根こそぎ退治だ。

もっとも、どこでどう生まれていたとしても、もっと前に死んでしまっていたという可能性のほうが高そうだが。
例えば、小児喘息をこじらせて肺炎で死んでしまうとか、マラリアにかかって高熱でうなされて死んでしまうとか。


学生の頃、僕は自分は長生きはしないだろう、ロクな死に方はしないだろうとずっと思っていた。
理由は分からない。なんとなくである。

何年生のときだったか、僕が大学生のときに入っていた合唱団でアンケートがあった。
そのうちのひとつが、
「あなたは自分がいつどこでどんな死に方をすると思いますか。」
という内容だった。

「組織に追われて、どこかの港かスラム街か何かで力尽きて死ぬ。」
みたいなことを僕は回答したはずだ。

「よく分からないけど、年取って畳の上でみんなに囲まれて安らかに死ぬと思う。」
後から集計を読んでいて、こんな回答が続出しているのを見て、僕は真剣にショックを受けた。僕が考えたこともないような死に方だったからだ。

彼らにとって、人生って何なのだろう?死ぬ前のストーリーはないのか?死ななければならない事情はないのか?
どうしてみんなそんな死に方が想像できるのだろう。いや、むしろそれが普通なのか?と。
当時の僕にとって、まるで想像外の死に様だった。

そのうち、僕はその合唱団に顔を出さなくなった。
それが理由ではないのだが。

01/06/21


ヤブクランケにメールする
「ぱさど」トップへ
こねこねのさいとトップへ