胡蝶蘭


目が覚めたのは5時半ごろだった。首にイヤホンのコードがからまっている。
そういえば、夜中に起きてCDをかけたっきり、また寝てしまったのだった。
目は覚ましたが、あまり活動的な気分にはなれなかった。イヤホンのコードを首からはずして、僕はしばらくうすぼんやりしていた。

そのうち、なんだか胃の様子がなんだかおかしい気がしてきた。胃酸が多いような感じだ。
そういえばと思って、僕はペンライト代りにしている携帯電話のボタンを適当に押してバックライトをつけて、その灯かりで薬袋の中身をチェックした。
案の定、昨日寝る前に胃薬をひとつ飲み忘れていた。僕はすぐにそれを飲んだ。その薬は水なしで飲める。

それからしらばくどうしようかと考えていたのだが、僕は6時ごろになって起き出した。大部屋のカーテンはまだ閉まっていたが、外からの光が多少は入ってきていた。ぼんやりと明るくて、天気はよさそうな感じだった。
活用しそうなものをひととおりまとめて、僕はロビーに出た。

ロビーに出て、すぐに体重を量った。60.65kgだった。最近、体重は微増の傾向にある。
側の机ある表に数字を記入しているところで、控え室から看護婦さんが出てくるのに出会った。
「あ、こねさん。おはようございます。」
「おはようございます。」
彼女は朝の検温のときの簡単な質問をしてきた。僕は質問に答えた。
「それから、先生からで。今日なんですけど、朝食後に採血があるので、自己主張の強い魚を飲むのは朝食の後、採血まで待ってください、ということです。」
「あ、そうですか。分かりました。」
彼女にはちょっと距離感みたいなのがあって、入院当初の僕はどうも戸惑っていた。
しかし、慣れてみると彼女の距離感はそれはそれでやりやすい、と最近思うようになってきた。

彼女がどこかに行ってしまって、僕はロビーのいつもの場所に座った。
外は僕が思っていた以上にいい天気だった。
持って来たものをいろいろと手もとの場所に置いて、さて、と思ったところで、控え室から別の看護婦さんが出て来た。中堅どころの看護婦さんだ。このぐらいの時間には、看護婦さんはナースステーションと控え室との間を盛んに往復していることがある。

彼女は僕の姿を認めるなり、つかーっと歩いてきた。
「こねさん。今日は採血があるんで朝食後の薬は云々。」
彼女は早口でそうまくしたてた。
「あ、はーい。」
僕はそう答えた。さっき聞いた話だった。
彼女のそういう一方的な調子にも当初の僕は慣れなかったのだが、最近はそうでもない。

彼女がいなくなってから、窓の外を見た。眼下の道路には道路工事の気配はない。
時間が時間だからかな、と僕は思った。6時では、通常の夜勤の道路での工事は終了している時間だ。

でも、そう思って街道に沿って視線を持って行ったところで、ちょっと向こう、木の影になっているあたりに1台の工事車両が止まっているのが見えた。道路工事現場の一番手前側にある、黄色と黒の目立つ柄をした表示が主な目的のひとつと思われるヤツだ。黄色い警告灯なんかもついている。中央分離帯には三角コーンも並んでいるように見えた。

(今日はあそこで代りに工事なのか)

そう僕は思った。

そこにまた、さっきの中堅どころの看護婦さんが戻ってきた。血圧計を持っている。
どうやら僕の血圧を今測ってしまおうということらしい。僕の腕にバンドが巻くと、彼女は機械の所定のボタンを押した。腕のバンドに空気が入っていった。

バンドが膨らみ出すと彼女はちょっとロビーの窓の反対側に目をやった。
そして、つかっと立ち上がると、つかつか、と僕のいる側の反対側に歩いていって、ひとつの植木鉢の前に乗り出した。
そしてどこからかハサミを取り出すと、ちゃき、ちゃき、とその植木の枯れ茎を切り出した。

僕の腕のバンドは、緊張から弛緩に向かう過程にあった。血圧計のデジタル表示の数字が、その間次第に下がってきている。

枯れ茎を除く作業を終えた彼女は、続けてとなりにあった別の鉢の白い花を凝視した。
しばらくそれをじっと見つめていた彼女は、不意に言った。
「よく咲いてるわね。珍しいのよ。」
「へえ。そうなんですか。」
そうなんですか、としか答えようがなかった。僕は植物には疎い。それが何の花かも、正直分からなかった。
「そう。コチョウランは、最初の年以外は咲かないものなの。」
「コチョウラン?」
胡蝶蘭と書くのだ、と彼女は言った。
「どのぐらいなんですか?」
「もう、7、8年かな。」
「それでも咲くのかあ。」
普通は2年目からは咲かない、と彼女はもう一度言った。
最初の年でないのに咲いているのは看護婦さんが手入れをしているからではないかという仮説を僕は展開してみたが、手入れをしているのは私ではない、ヘルパーさんだ、と彼女は素っ気無く答えた。

ひととおり植木を見終わって、彼女は僕のところに戻ってきた。血圧計はその役割をすっかり終え、バンドは僕の腕に力なく絡みついているばかりであった。彼女は僕の腕からそれをはずした。
「120-83ね。」
そう言って彼女は、朝の検温のときの簡単な質問を続けてきた。
さっき別の看護婦さんに答えたと僕は彼女に伝えた。彼女はあら、そうなの、という表情をして、血圧計を手に取るとそのままどこかに行ってしまった。

僕はもういちど窓から街道の向こうを見た。さっき工事車両がいたと思しき場所を。
けれども、さっきの工事車両の姿は見つけられなかった。その代りに、道のそのさらに向こうにある信号が赤になっていて、そこからさっき工事車両のいたと思われる場所までとりどりの自動車がつながっているのが見えた。

(...?)

さっきの車は、工事中ではなかったのだろうか?それとも、やはり赤信号で数珠つなぎに連なっていただけだったのか?
やはりあの車は信号待ちだっただけなのだろうとも思ってみたが、それはそれで、何か違和感があった。
どうしてだろう?

ちょっと考えてみて、その違和感の原因が思い当たった。
道路に三角コーンがあった気がすること、僕にはあの車が黄色い警告灯を点けていたような気がしていることがそれらだった。
僕はもういちど街道のそのあたりをよく見てみた。
でも、やっぱりそこには工事車両もいなかったし、三角コーンも見あたらなかった。

僕はしばらく街道のそのあたりを眺めていた。昼間ほどではないが、それなりに交通量は多かった。
信号が何回か切り替わり、とりどりの車がその度に止まり、流れていった。街道のさらに向こうにある高架の上を電車が走っていくのも見えた。

「今日はやけに車の多い日だな」という印象は持った。
けれども、僕が探している工事車両は、やっぱりどうしても見つけることができなかった。

01/07/03


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