牧神の午後の誘い


今日も、昼寝をしていて起こされるというイベントがあった。
やられ役はいつも僕、今日の仕掛人は看護婦さんだった。

また仕掛けられたと僕が気がついたのは、看護婦さんが
「ああ、血圧低いですねー。」
と言ったのを遠い黄泉の国の意識の狭間で聞き取ったときである。
彼女はいつのまにか、午後の検温で僕の腕に血圧計を巻いていたようだった。

昼寝をはじめた時間は覚えていた。1時半ごろだ。30分ほど寝ようと思って僕はふとんをかぶった。
今日これから書こうと思っていた「新日曜美術館」と「N響アワー」の感想のことで面倒くさい気分になっていて、「面倒だから、とりあえず寝てしまおう。」と、熟睡していたのだ。
書きたいことはもう決まっていたのだが、今朝の話と検査の話をちょうどアップし終えたのが1時過ぎで、頭が疲れていたし、休憩したい気分でもあった。

看護婦さんが血圧の数字を言って、僕も驚いた。上が100を切っていて、下が60を切っていた。
切っていたのは分かったが、それがいくつなのか聞いただけでは分からなかった。
こんな数字だったことありましたかと聞かれて、とりあえず入院後には記憶がないと答えた。
そのあと、115-60でしたっけ?みたいな質問を何度かして、彼女がその度に95-68です、と解答して、それをくりかえしてやっと僕は3桁と2桁の数字の組み合わせをいちおう理解して記憶することができた。
目が覚めてくると、右腕の脇の下を自分がずいぶん緊張させていることに気がついた。
どうやら、体温計がささっているようだった。よく分からないけど、僕は緊張を続けた。

「ちょっと低すぎるから、またあとで検温しに来ますね。」
寝ていたから特別血圧が低かったというのもあるだろう、と彼女は言った。
僕は彼女に時間も尋ねた。2時を少しすぎている、ということだった。

体温測定の仕掛けは結局失敗してしまった。体温計が僕のパジャマのどこかで「ピピ」と音を出したときに僕はなんとか起き上がって、2人でパジャマのどこに体温計があるのか探してみた。
しかし、それが見つかったのは白いシーツの上で、その表示は「E」であった。
逆さにすると「3」と読めないこともなかったが、そういう見立ては無駄な努力であった。


次に目が覚めたのは、女性の声の長い説明とそれに対応する男性の声の組み合わせが聞えてきたときだった。
目が覚めてくると、話をしているのはさっきの看護婦さん、話を聞いているのはSさんのようだった。Sさんは、明日手術らしかった。
よく分からんが相変わらずSさんらしい、と、なんとなく僕がそういう印象を持ちながら上の空で彼の対応を聞いていると、そこに放送が流れてきた。

「これから各部屋に業者さんのラジオの点検が来ますのでよろしく。」

そういう内容だった。登り階段状に音階があがっていく放送前の注意喚起の音楽で僕はきちんと目を覚ました。

(ラジオ?)

ラジオがあるらしいとは前から知っていた。
「消灯時間後のテレビ、ラジオのご使用はご遠慮下さい。」
というメッセージが、消灯時間のアナウンスと一緒に流れてくる。
ただ、どこにあるのかまでは知らなかった。
興味がなかったのではない。ちょっと探しても見つけられなかったが、どうしてもすぐに見つけたいと思うほどのものでもなかったということだ。

すぐに、業者の人が挨拶して入ってくる音がしてきた。
業者さんの気配はカーテンを閉めている僕のベッドを通り過ぎて、いちばん突き当たりの窓際のほうにまで進んでいった。
彼が何かする音が聞えて来て、ラジオと思しき音が部屋に鳴った。
音はすぐに止んで、業者の人がいなくなる気配がした。
あっという間だった。

(・・・各ベッドごと、ではないのか)

業者の人が来て点検するときに僕のベッドのどこにラジオがあるのか分かるだろうと期待していたのだが、残念ながらアテは外れてしまった。
僕は、ベッドから出て窓際のほうに行った。
Nさんのカーテンが開いていたので、僕はNさんに聞いてみた。

「Nさん、ラジオって、どこにあるんすか?」

これだよと言って彼が指差したのは、目立たない色の2つのツマミだった。
こんなの僕のベッドにもあったっけ?
まるで記憶になかった。

あとで調べてみると、なるほど僕のベッドにもあった。
ボリュームのツマミとチャンネルのツマミがある。チャンネルのツマミをまわすとガチャガチャと音がして、思いっきりまわすと抵抗がなくなって壊れた感じになった。
ちょっと不安にもなったが、そこで逆方向にまわすとすぐにガチャガチャと音がした。
しかし、ボリュームのツマミと両方をいろいろ組み合わせてまわしてみたが、どうにも音は出てこない。

どういうことなのだろうと思ってよく見てみると、さらにそこにイヤホンの差込み口があることを発見できた。
僕はテレビにつけていたイヤホンをその穴に取りつけなおしてみた。
イヤホンからは音楽が聞えてきた。

最初に聞えてきたのは僕の知らないニューミュージックだった。
チャンネルを切り替えると、歌田ヒカルが僕の知らない曲でいつもの悲しそうなビブラートを発していた。
次の局ではニュースだった。
「日銀発表の卸売物価指数が、キュウジュウゴウテンナントカとなり、前の年に比べてレイテンナントカパーセント下落しました。前の月に比べて下落しているのは、これで9ヶ月連続です。」
次のチャンネルはクラシックで、それを聞いたときにはじめて僕は、このラジオがモノラルだということに気がついた。音が入ってくるのは右の耳からだけであった。
僕は、イヤホンをテレビに差し込み直した。


それからさらに1時間ぐらいした。
夕方になったところで、さっきの看護婦さんが血圧を測り直しに来た。
右腕に血圧計を巻いてもらった。

バンドに圧がかかりはじめたとき、僕は彼女に尋ねた。
「さっき測ってもらったとき、右腕でしたよね。」
寝ていたから左腕でやったと思う、と彼女は答えた。
言われてみればそのとおりだ。体温計は右腕にさしていた。

そうだったのか、しまった、と思ったときは遅かった。バンドの圧がいっぱいになっていくに従って、右手首のルーターの部分が、血の流れが止まったせいでズキズキと痛み出した。

血圧は116-68だった。やっぱり、さっきは特別熟睡していただけのようだった。

「さっき、メチャクチャ熟睡してたからなぁ。寝ぼけてて、血圧の数字とか何度聞いても覚えられなかったし。」
「まったくボケボケでしたね。」

測定を終えると、そう言って彼女はいなくなった。

01/07/09


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