ぱさど コメント


Sさんの事情
01/07/09

まあよく日記を書いていた。テキストにもあるとおり、htmlファイルを作るほかに、毎日B4に4-5ページぐらい自分向けでも書いていた。
だいたいタイミングは前の日のことを翌日の朝に書く、というパターンであった。
目がさめてから起床時間までの時間をロビーで窓の外をみたり音楽を聴いたりしながら日記を書くというだけなのだが、そこにそれぞれ個性を抽出し書き出すことはひとつの楽しみであった。

ルーターのつけかえに5回も失敗されつつもなんとか状況を受け入れようとしている。

「芸能リポーター梨本勝が、...声明を発表していた。」
というのは、僕がとても気に入っている表現のひとつ。

このあたりは、とにかく薬が効いていて肝心なところでまともな思考がまるでできていない状態であった。
この先ずっとこの病院のこのフロアで僕は過ごすのだろう、と真剣に思っていた。
薬の副作用についても「あることないこと」吹き込まれて悩まされていたころで。
医者の言うことだからと思って僕はすっかり信用していた。

02/07/21



ギャートルズ
01/07/07
「ボウコウの手術をした」という老人との朝の会話。彼の陳述は、今の僕が考えてもやはり奇特だ。
まあでも、彼も何かヘンテコな薬を使われていたのかもしれない、と今になって思う。当人は至って正常のつもりでもバランスがおかしい人間が、あの病棟にはたくさんいた。
それも今だからそう思うのだが。そして、当時の僕もその一人であった。
彼の発言は社会へのsarcasmに満ちているが、その一方で、「切られなくてもよいところにメスを入れられた。」
なんてとんでもない話を当然のように受け入れている。
そんなバランスの悪さも、ある意味、ならではだ。

02/07/21



時系列のコンプトン効果
01/06/24
題名の由来は忘れた。
「コンプトン効果」はきっと「朝の細かい微粒子」から想像させられたのだろう。でも、「時系列」とは?

「退院の時期の話なんかもう出なくなってしまった。」
「僕もがんばって、冬まで入院してなきゃ。」
とか、ずいぶんさらっと言っている。後者の発言のことはよく覚えている。看護婦さんはずいぶん困っていた。自分が冬まで入院していることはないだろうと いう気もありながらも、その一方でそれは夢のようなバラ色の近未来でもあった。

「ひょっとすると自分も退院することがあるのかもしれない。」ぐらいにしか考えていなかったし、退院したらどうしようとかいうことはまるで考えていなかった。退院するつもりなどなかった、とも言える。
先のことを考えられる状態ではなかったからな。

というより、とにかくこのころは時間についての感覚が麻痺していた。「時系列」とは、そういう時間感覚を暗示して使った言葉なのかもしれない。

もう何ヶ月も入院したっきりだというようなつもりだったのだが。
日付を見るとまだ2ヶ月も経っていないころだ。

02/07/21



エンキ・ビラル
01/06/30
あれこれ見聞きしたものについて、とにかく思うことをいろいろ書いていた。
とにかく、薬の副作用のおかげで方向性はともかく常にハイテンションになっていて、外部から来る刺激に過敏な反応を くりかえしていたし、受け取った刺激は発表しないわけにはいかない精神状態であった。

「NHKフランス語会話」で紹介されていたフランス人漫画家の出版物を、amazon.co.jpで入手した。
値段は安くなかったが、読み終わったあとは「高くついた」と感じた。
今もうこの本は手元にはない。ある友人が見舞いに来てくれたときに貸してそれっきりで、そしてそのことはいっこうにかまわない。

「内面に眠るモンスター」という表現が適切かどうかは分からない。
「内なる自分の中に生み出されるキメラ」にコントロールを奪われるというのがむしろ適切なのではないかと思う。果たして、人間の中にはア・プリオリに「モンスター」が存在するのか。

常識を超えた負荷が、人を狂わせていく。
それが薬のせいにしろ、精神的、肉体的な重圧からにしろ、当人にとっては自己のコントロールを失っていることに気がつかないままに変貌してしまうという恐ろしい現象という意味ではまるで共通であろう。

彼は自分の故郷でそういう存在同士が「互いに傷ついていく」のを見てきたからそういう作品を書くのかもしれない。
彼の作品がフランスでウケていることは、今日の移民増加傾向の中でのフランス人のアイデンティティ感にも関係があるのだろうか。

当時の僕の感想は作風についてのコメント、作者への人物考察という形で書かれているが、今の僕は、むしろ「人間をコントロールしようとする者と、それに抵抗する者の格闘」という表現が面白いと思う。

他者にコントロールしようとする主体を持ち出すことで物語として構成されすくなっているが、僕はやはり、コントロールされる側の立場から見た、「自己のコントロールを失うこと」に目がいってしまう。
コントロールを奪われる側にとっては、それを奪う主体が何であるかということはあまり重要ではない。

自分で認識できないままに感情や行動をコントロールできなくなるということは非常に恐ろしいことだ。まして、自分の精神構造に直接手を入れられてしまってはもうどうしようもない。

「フランス語会話」で見てから手に取るまでだいぶ時間があった気がしていたのだが、このテキストをアップしたのは手にとってからさらに何日か経ってからのことだったのだが、日付を比較すると2週間しか経っていない。
自分で感じるより実際にはぜんぜん時間が過ぎていないというのも、この時期の特徴であった。

これを書いた時点では、すでに当の自分がすっかりコントロールを失っていたことにまだ気がついていない。

02/07/21



マークされる競技者
01/06/10
誤注射をめぐる一連の騒動。なんと合計7連作。これはそのうちの最初のもの。
「中身が同じだから大丈夫です。」とは本格的にヒドいセリフだ。しかも、しばらく様子をみてても何も言ってこないと思ってこっちから行動したら、3日後になって「知ってたけど様子をみていた。」とかいってのこのこ出てくる婦長。どう考えてもまともじゃない。あのまま僕が何も言わなかったら、どうするつもりだったんだ?何か、ふつう一声ぐらいかけるものだろう?
というか、おそらく彼女は何も知らなかったのだろうな。

本人はつとめて冷静であるつもりであったが、実際は完全にパニックに陥っていた。
このころは2回目にパルスを打たれた直後で、完全に気分が錯乱しはじめたころだ。

ふつうならこのへんで「ロクな病院じゃない。」と気がつきそうなものだが、「他の病院ではうまく治療できたものではない。」という入院時の医者の言うことをすっかり信じていたし、他の病院にセカンド・オピニオンを取りに行くとかできる状態ではなかったし、そもそも薬で混乱していてすでにまともな思考のできる状態ではなかった。
考えようによっては、あの病院に収容されてしまったところで運の尽きだったのかもしれない。
日曜日の朝に医者が持ってきた注射器に書かれている名前が僕のものと違うので確認を取ったら、「どれでもいっしょだ」という答えが返ってきた、というアメリカのC級コメディのようなオチ。ひどい話だ。
まちがいがあるのは(あってはならないのだが)まあしょうがないにしても、そのあとの対応がひどい。
「クボヒロコ」なる人物がどこの誰なのか分かったのは9月もだいぶすぎたあたりのころであった。
透析も受けステロイドも使っているという人で、足のほうはまだむくんでいた。透析を受けている人は本当にたいへんそうだ。

「ステロイドが効いて鬱になってしまって本当にたいへんなんです。」
という彼女がひとごとではなく、僕は、フロアの廊下で彼女の陳述をただただ目をつぶって聞くばかりであった。

02/07/25



井戸の底
01/05/31
入院中のよもやま話について、いろいろ思うところを書いていた。
ステロイドが効いた状態でのものの見え方に特に注目してみたい。

ウェブサイトを更新し、手書きの日記にも膨大な記述をし、「あれを見たときこう感じた。」「あの人物のこういう反応はこういう感情から来ているのだろう。」とか、そんな話題がかなりを占めていた。とにかく、自分は異常に冷静で鋭い観察者になった気がしていた。
たしかに全般に鋭い。しかし、その一方、穿っている部分もかなり見られる。

僕の入院当時の文章を読んでメールをしてくる人がときどきいる。
ステロイドは人間の脳をかなり刺激してしまう。
ああいう副作用の出方は僕に特有の経験であり、僕は特別感受性が高いからああいう出方をしたのだろうという具合にずっと思っていたのだが。
誰でも多かれ少なかれあんな状態になってしまうのだ、と、最近よくメールしているある人とのやりとりの中で知るようになった。
それについては、改めて詳しく書くつもりはない。僕が僕自身の体験について書くこととほぼ同じことだ。同じような経過を辿り、同じように苦しんでいる。

あんな薬のせいで自分を見失ってしまう人が僕以外にもいるとは。

薬が抜けたとはいっても、当時の思考パターンはまだ完全には抜けていない。運動でも、いったん悪い癖がつくと修正しても何かのきっかけですぐ戻ってしまう。それと同じように、思考のパターンも、一度強い影響を受けると、ちょっとしたきっかけですぐそのパターンに戻ってしまう。

当時のことを思い出すと、今でも僕はとても口惜しい。
あんな薬をメチャクチャに使われなければ、どうなっていたのだろう?
僕はどんな危機にも冷静でありたかった。どんな状況でも適切であるはずだった。

本来の僕はそうであったはずだと信じたい。
でも、そう信じきれるようになるには、まだすべてが足りない。僕はまだ当時の僕をひきずっている。
この話題は、僕の中では、まだ現在完了形と過去形の間をいったりきたりだ。
入院1月。治療はうまく行っていないと聞かされ、すっかりひっこんでしまっている。
薬で精神は安定を欠いている。自分がいったいどういう状態なのか病院の提供する情報以上のことは分からない。不安は不安を呼び、不安定は増幅するばかりという状態の中でふたたび大量に薬を打たれ、このあたりで完全に自分を見失った。
もちろん、自分を見失った人が誰でもそうであるように、僕は自分が自分を見失っているということには気がついていない。
副作用をかなり恐れている。
「井戸の底」という表現は面白い。ひっこんでいる自分の位置、雑音の消された環境でセンシティブになっている状態を、短い文章でよく表現している。とにかく、受ける刺激のすべてが強すぎて、なるべくあまり自分に強い刺激を与えて欲しくないと思っていた。

03/01/01



Sさんどこへ?
01/06/04
病院で出会った変わった人という切り口で書かれている。
Sさんは人工透析を受けていたのだが、腹膜透析なるおなかに管をつけてしまい、透析センターにいかないでも透析できるようにするという手術を受けに来ていたようだ。
「セルフコントロールがまるでできていない。」と皮肉るようなトーンだが、今思えば彼も血液のバランスがおかしくなってまともな思考ができない状態だったのかもしれないし、僕の入院生活も結局自分をコントロールできていないという点では似たようなものであった。

03/01/01



クスコ
01/06/05
深夜に目覚めた僕は、同室の他の患者に自分を重ねる。
自分への不安も吸収できないままに、僕は消灯された部屋を抜け出す。
僕はさらに自分の内面に入っていく。過日に旅先で体調を崩していたときの記憶は、そのまま病弱だった子供時代にまでさかのぼっていく。
自分の体重はたちまちに落ちていく。
自分の中から削ぎ落とされていくのは、健康状態なのか。知識なのか。将来への希望なのか。
外からは分からないままに、これまでに積み重ねてきたものが急速に消されていく。それは、とても恐ろしいことだった。
すでに自分には適切な評価能力は失われていた。そして、医者には、今よりよい状態になることは期待しないほうがよいだろうというようなことを盛んに吹き込まれていた。
この先、僕は自分を取り戻せる日が来るのだろうか?
そんなことばかり考え、僕はたまらなく不安であった。

03/01/01



続井戸の底
01/06/06
「井戸の底」の続編として書いた。「井戸の底」を書いた時点で当然想定された内容で、僕にとっては必然だった。
かなり時間が空いてから書いたつもりだったのだが、こうして日付を比較してみると、1週間だ。
この時期をふりかえると、こういう話はよくある。

03/01/01



別世界への旅行
01/06/07
すっかり薬漬けになっていたある日、僕はひさしぶりに検査のために入院病棟から外にでた。
そこで見た世界は、それまで知っていたそれとはまるで別のものであった。
理性による解釈を超越した感覚を感じ、僕はその空間への新しい認識とほんのわずか前まで自分の日常であったはずの記憶との間に整合性を持たせようと試みるが、皮肉なことに、そうして思い出されるのは、遠い昔の異郷での非日常的体験ばかりであった。
それはつまり、病棟の外はもう自分の棲みなれた空間ではないということだった。
こんな世界には、もう戻って来ようがないだろう。どうあっても、もう今の僕に適応できる世界ではない。
そう思って僕は、もうこの世界に何事もなかったかのように戻ってくることはできないのだろうと観念した。
「パスポート持ってきてないよ!」なんてヘルパーさんに叫んでいる。もちろんヘルパーさんに対しては冗談なのだが、本人にとっては、本当にそのぐらい言ってみないと気がすまないぐらいの衝撃であった。

03/01/01



ニューデリーは40℃
01/07/19
僕が気分的に限界に来ていたときのページ。
この年は大変な猛暑だったらしい。6月ごろから驚異的な酷暑が続き、僕を訪ねる人からは「外に出ないで済むから君は幸福だ。」みたいなこともよく言われた。
僕が外出の許可が出たのは8月になってからのことで、そのころにはこの年の夏はもう収束に向かっていた。
自分に関係のない限り東京もニューデリーも変わらない。厚い窓ガラスの向こうにどんなエーテルが拡散しているのか、分からなかったし、知ってショックを受けるのもいやだった。おかしくなっているのは自分のほうなのだろうということはなんとか分かりかけていた。外の世界でやっていけるという自信はとっくの昔に失っていたし、もう戻りたくないともずっと思っていた。
そういう状態の自分を「水槽の中のおさかなさん」と表現している。
それは、誰かに調整され、与えられた世界でしかもう自分は生きていけないという状態に対する暗喩でもあった。
それでも外の世界に戻りたいと思い出したのがこのころであった。このぐらいの時期から、僕は外界に精神的立ち直りのきかっけを求めはじめる。
しかし、結局僕は、その試みのすべてに失敗していった。

03/01/01



カイレ。梅雨明け。洗濯日和。
01/07/12
強烈に感覚が鋭くなっていた時期だけあって、音楽の嗜好もまるで変わってしまっていた。
僕は、この時期までクラシックを聴くという習慣を持ったことはなかったのだ。

どういうわけだったのかはよく分からない。空に塵がないと星がよく見えるように、雑音に惑わされていないので音がよく聞こえただけだったのか。薬が僕の分解能を極端に高めていたからなのか。
いつもイヤホンで聴いていたから、他の雑音が耳に入ってくることもなかった。
おそらくそのすべてだろうと思う。

薬を打たれた直後から、弦楽器以外はダメになった。同じ弦楽器でもピアノはほとんどダメで、ばよりんなどのタイプの弦楽器でないとまるで受けつけられなかった。
その時期をすぎて、夏の盛りをすぎるころにはいちおう人の歌の入らない音楽ならなんでも聴けるようになり、さらにもうしばらくすると、入院前に聴いていたような音楽も普通に聴くことができるようになった。
ラヴェルのばよりんソナタト長調を聴いてから、チャイコフスキー第6番ロ短調「悲愴」を聴いた。
ラヴェルのソナタはよく登場してくる。プラハ音楽祭でのオストラフの生演奏の録音CDで、友達が貸してくれたものだった。
ラヴェルの音楽には、多少狂気じみたものをずっと感じていた。人間が狂って笑い出す瞬間のような状態の中、作曲者自体がその状況を弄んで楽しんでいるかのような印象であった。
オストラフの演奏もすばらしかった。

チャイコフスキーにはそういう印象を持っていたのか。

モーツァルトの40番は当時のページに高い頻度で登場してくる。
とにかく、この人は抜きん出ている。「天才は孤独」というのも、よく分かる話だ。

03/02/09



41番
01/07/06
モーツァルトの交響曲41番のことは、聴きはじめからずっと不可解だった。
というより、40番に受けた衝撃が強すぎたのかもしれない。今では、どっちもよく聴いている。
40番ばかり聴いていたのは、やはり当時の僕自らが書いているとおり、「僕自身が自分に強い関心を持っていた時期だった」ということだったのだろうと思う。
エネルギーはありあまっていたが、向ける対象がなかった。自分から放出されるものがやたら多くて、やはりそれに大変な感心があった。

自分が感じたことを見ていけば、きっと自分がどういう人間なのか分かってくるし、感じた通りになんでも書いてしまえば、結局自分自身について書いてしまうことになる。
誰についてでも、何についてでも、持った感想をそのまま書いてしまえば、それは外に対象を求めている形にはなるけれども、結局僕自身について書いていることになる。


だそうだ。まったくそのとおりだ。

03/02/09



気分次第で話題不足の夏の日差し
01/06/28
ブラームスの交響曲1番。
「ずいぶん人に配慮して書いているな、という印象を持った。配慮ばかりが感じられて、肝心の彼の音のほうはよく聞こえてこなかった。」
とは、またなんとも。

03/02/09



電気ポセイドン
01/06/22
相部屋だったために、どうあっても人間関係に関連する問題がつきまとっていた。
狭い世界だし、奇妙に屈折した状況や感情を共有しているために、どうしてもお互いいろいろある。
ある程度より長い入院であれば仕方ないだろう。

僕は最初3人部屋にいてそのあと6人部屋に移った。しばらくしてそこをはじき出されて、他の6人部屋に移る。

僕の隣のベッドにいたNさんはガテン系で、僕と同じネフローゼだったのだが、もう何度か再発をしてこれが何度目かの入院だったらしい。
まだ僕が別の部屋にいたとき、初めて彼をトイレでちょっと見かけたときに「おそらく彼とは合わないだろう。」と思った。
結果は、やはりうまくいかなかった。最初はなんとかなったが、もとより僕は気ばっかりすり減らしてでもなんとかごまかしてやっていけるようなタイプではない。

彼は同室の同病ということで、たいへん僕に興味があったようだ。この「電気ポセイドン」でも分かるが、僕が忘れているような僕の数字についても詳しく記憶し、僕の経過が良好なときは、彼は自分のために調整された食事まで勝手に制限して僕の食事に合わせようとしている。

僕は何度も彼に精神的に追い詰めさせられた。それは僕がウェブサイトの更新をやめるちょっと前ぐらいからのことだったので、その話題が公開されたことはない。
そのやり方は、とにかく僕が知りようのない病状がひどくなった場合の惨状の話題をわざわざ相手がいやがるような切り口で話したりするものだったりとにかく気に入らないことがあると当り散らしたりという具合だった。
僕はやられっぱなしだったし、実際何度か泣かされた。

今でこそそれも仕方ないかと思う。彼もステロイドを大量に投与されていたし。

ちなみに、「ヤブ医者、ヤブクランケ」の「その2 あれぐれ」は、彼との関係が原型になっている。
僕は、彼が早く僕の視界から消えて欲しいと思っていた。結局先に退院したのは僕のほうだったが。

03/05/17



りりーす・ざ・電気ポセイドン
01/06/27
それでもなんとかNさんを好きになろうと思って努力はしていた。
なんか、彼はこの段階では僕と体重を競っているかのようであった。

『パジャマの下見たくない。』なんて、彼の前でいつ言ったかなぁ?)
というのも、この人と僕との当時の関係をよく象徴するオチだ。

前の「電気ポセイドン」から何週間も経ったつもりだったのだが。
2つの日付によると、ほんの5日間のことだったのか。
いつもながら、このページを更新しているとあのころの時間の進み方の遅さにびっくりさせられる。

03/05/17



ポセイドン
01/05/12
点滴パックをぶら下げる持ち運び用の棒のことをポセイドンと呼んでいる。
僕としてはわりと気にいった呼び方であった。

03/05/17



お魚さんの自己主張
01/06/15
免疫抑制剤ネオーラル(シクロスポリン)を毒魚に例え、コシャい胃薬を小さなかわいいお魚さんと呼んでいる。
ネオーラルに対しては、この薬は恐ろしいものだとさんざん吹き込まれていた。
薬として直視するのがキツいのでメタファして逃げているということは自分でも分かっていた。

「何事も経験ですからね。」とか言って、ここの医者は相変わらず配慮がないな。
ま、彼は1年目だったし多少は仕方ないか。

03/05/17


ヤブクランケにメールする
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