マークされる競技者
毎日の僕の注射の手順、というのはこうだ。
・注射用に腕につけっぱなしになっている管に、ステロイドの注射がされる
・「ヘパリン」という管付近での血液凝固を防ぐ働きをする薬液が注射される
平日、土曜日は僕の担当のグループの先生の誰かが注射をする。
そのときは、まず問題は起こりようがない。
普段からコミュニケーションもよく取れている相手だし、信頼できる相手だ、という心証を持っている。それでもいちおう確認はしているが、僕は基本的に安心している。
逆に日曜日には、とても気を使う。
日曜日はたくさんいる腎臓内科の先生の誰が僕に注射に来るか分からないからだ。
今日来たのは、僕がはじめて見るまだ若い先生だった。彼は、平日に普段僕が注射してもらう女医さんと同様に、トレイに2本の注射器と、アルコール綿を載せてやってきた。
その顔を見て、僕は注射器の様子をチェックした。
先生は簡単にステロイドの注射器を見た。
「60mg、ですよね。」
僕は、彼の注目が注射器に行ったタイミングで、自然にその内容物の量に間違いがないか、確認してもらった。
「えー。はい。60mgです。」
ちょっと間があって、彼はその数字を言った。
注射器を僕の腕に持ってくるとき、僕もその注射器に僕の名前がシールしてあること、赤のボールペンで書かれたステロイドの量がいつもどおり、20mgX3となっていることを確認した。
そして僕は、彼が注射に集中している間、トレイにあるもうひとつの注射器に注目した。
僕には、彼がそのトレイを机に置いたときからずっと気になっていたことがあった。
その注射器のシールに貼られている名前は、僕の名前ではなかったのだ。
(彼は、このあと連続でどこかに注射に行くのだろうか?)
そうも思ったが、そんなケースはこれまで見なかった。それに、だったらトレイには最低、他にも僕に打つためのもう一本の注射がなくてはならなかった。
だが、それも僕には見つけられなかったのだ。
僕は、彼の様子を注意深く観察していた。
彼は最初の注射を終え、注射器の針にカバーをかけ、トレイに戻した。
そして、彼は何の気もなし、という様子でもう一本の注射器を取り、そのカバーをはずした。
「先生、それ、違う人の名前が書いてありますけど。」
僕がそう言ったタイミングは、彼がその注射を僕にしようと覚悟を決めて、僕の腕を取ろうとしたときだった。
「あ、え?」
彼はちょっとびっくりした、という様子だった。
僕はもう見まごうこともない。そこに書いてある名前は「クボヒロコ」という女性の名前で、部屋の名前も違う。「ヘパロック」と書いてあるところからして薬品の効能的には問題なさそうだが、おそらくそれは別の誰かに打つために用意された溶液だ。そして、きっとどこかに、僕のために準備された「ヘパロック」がある。
彼は、
「あ、でも、中身は同じですから大丈夫です。」
と、あわてて言ってしまった。
しかしさすがに、
「・・・確認してきます。」
と言って、部屋を出ていった。
彼はすぐに僕のための注射を持って来た。僕はそれに僕の名前のシールがついていることを確認して、注射を済ませた。
ほとんど無言だった。
もちろん、中身が同じだから問題ない、ということではない。違う誰かに打つべき注射を打とうとした時点で、はっきり大問題だ。僕が気がつかなければ、彼はきっと僕にあの注射を打ってしまったことだろう。
相手が僕だったから良かった、と言えた。僕は先生に任せるよりない部分についてはそうしていたが、情報を共有すべき部分については共有すべく努力していた。自分で分かることは全部分かろうとしていたし、その流れで今自分に使われている薬の量がどのぐらいなのかということは常に把握していた。正しく薬が使われているかどうかも毎日注射の度に自分で確認できる範囲で確認していた。注射が通常どういう手順で行なわれているのかも普段の観察で分かっていた。日曜は特殊な状態であることも意識していたから、違和感のある状態にすぐに対応できたと言える。
しかし、僕のほうが先に気づくとは、どういうことなのだろう?
彼は、何故今のミスを犯したのだ?
僕は、むしろそのことが気になった。彼にとっても、日曜というのは特殊な状況、いつも診ない患者の対処をする、というのは特殊な状況だということは分かってるはずだ。
それなのに、何故彼は確認を怠ったのだ?いつも以上に注意力が要求される場面だったはずだ。
僕が彼なら、患者に問われてステロイドの注射を確認したときに、同じ流れでついでにヘパリンの名札も確認していただろう。
おそらく、ヘパリンはあまりにもありふれているから、誰かが「ヘパロック」だけをまとめて次々に作っておいてある場所があって、彼はそこから僕用の「ヘパロック」を取り出すときに、何かの勘違いをしてしまったのだろう。
僕は、これまでに得た知識とあわせてそう推測した。
僕は相手が僕だったからよかった、とは思ったが、同時に
「今の自分だからよかった。」
とも思った。
いつも言っているが、病棟で入院している患者、というのは、本人のことでいろいろと大変なのだ。僕だって、いつも冷静にまわりの状況の変化に対応しきれているわけではない。
こっちに精神的な余裕がなくてシャツが出ている競技者に服装を正すように指示しきれない、とか、処罰されるべき違反をした競技者を処罰しそこねるとか、そういうケースはやはり僕の吹いた試合にも過去にはあった。
僕が何らかの事情で注意力を欠いている状態のときに今の出来事が起こってしまったとしたら。そして今回の溶液の内容はたまたま問題ないものだったが、例えばもっと別の何かだったとしたとしたら。そういうことも僕は考えた。
彼の態度にも不安を持った。要するに彼は、
「あ、でも、中身は同じですから大丈夫です。」
と言ったきりだった。プライドが邪魔して、ミスを患者の前で認められなかったのだろう。
そうなるとかえって、単にミスをされるだけなよりよほど不安だ。およそ患者の不安を考慮に入れる余裕のない態度だった、と言える。
はじめて見た競技者だったが、今後危険と見るにはもうあまりにも十分だ。こういう競技者は、主審が試合終了の笛を吹くまでずっとマークだ。
どこで何をしようとしているのか、常に把握しなくてはならない。
正直に言えば、僕がマークしている先生、看護婦さんというのはこの病棟内にもけっこういる。
「こういうケースでは、彼(彼女)はこういう間違いをしかねない。」
自分に関係する場面だけではなく、他の患者さんとのちょっとした場面での態度、動き、判断。普段からいろんなものを見て、彼らがなんらかのタイミングで自分にとって危険な存在になり得ないか、僕は常にチェックを入れている。自分の身を守るためだ。
そういう相手が何か特別なアクションを起こそうとしているときには、僕はできる限りの注意をそこに注いでいる。
ただ、サッカーで審判をやっているときと違うのは、彼らが僕に関係する何かを起こす可能性があるな、と感じたとき、未然に問題化しないように僕のほうでできることをしよう、と僕が心がけているかどうかだけである。
僕は、今日起こったことについて、グループリーダーの先生と適切な対処について話しあうつもりだ。
01/06/10
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