モンスターの眠り エンキ・ビラル

モンスターの眠り エンキ・ビラル


バンド・デシネとは、フランス語圏におけるコミックのことを差す。(中略)わが国のマンガが映像的でスピード感にあふれているのに対し、バンド・デシネはより絵本的、文学的と言える。ページ数も少なく、省略法が多用されているので、流れるように読み進めるマンガとは違い、行間ならぬコマ間を読みとる、という行為が読者に要求されるのである。

本作品にはサラエボにおける戦闘場面や傷ついた人々は一切描かれず、(中略)ビラルは祖国内戦にける醜い暴力やその期間の長さにショックを受け、傷ついた。(中略)「戦争場面を描かなかったのは慎み深さからだ」と(、ビラルはとある機会に)答えている。


「モンスターの眠り」に付属してきたうんちくの書かれた紙に、そういう記述がある。


別に行間を読む作業は必要ない。絵の落ちたセリフだけのコマがたくさんあるだけだ。

最初は丁寧に全部読んだ。話の流れに慣れるのに随分手間がかかった。
話の流れがつかめてから、もう何度か絵を中心にして一気に読んだ。

好きになれなかった。


別に慎み深くもなんともない。
たしかに出てくる絵に肉体的な暴力やら戦闘シーンやらはほんの少しだ。人間が人間を殺そうとするシーンに限れば。

描かれていることはそれ以上にエグい精神的にキツいこと。
人間をコントロールしようとする者と、それに抵抗する者の格闘だった。
近未来に可能になったという設定の、人間の精神に直接作用する機械的方法、その記憶を奪いとる方法、特定の人間のレプリカを作る方法。
そういうものやもともと人間が持っている感情等を利用して人間をコントロールしようとする者の話だった。
コントロールされぬべく努力した人間はどんどん傷ついていったし、コントロールしようとする者もどんどん傷ついていった。


amazon.co.jp で「エンキ・ビラル」のキーワードで検索したとき、手頃な値段だと感じたのはこの本だった。
彼の代表作と言われる「ニコポル3部作」が紹介されていたが、いきなり3部作を買う気もしなかった。そして「モンスターの眠り」は1作だけのような雰囲気だった。

買ってみたらうんちく紙に、
「3部作になります。早く2作目が読みたいですね。」と書いてあった。
ありゃ、そりゃしまった。と僕は思ったのだが。

僕はもう、こんな怖い話の続きは読みたくない。


はっきり言って、恐ろしい話だ。エンターテイメントとして戦闘シーンを無駄に出してくれたほうが、よほどショックが少ないと思った。体を使って抵抗できるだけ、直接精神にダメージを与えられるよりだいぶマシだ。

これで慎み深いのか。
彼に本気で戦闘シーンを描かせたら、どうなってしまうのだ?
バルカン半島のことはまるで分からない。
宗教問題も民族問題も、僕にはやっぱり分からない概念だ。

民族主義に異を唱えるビラルにとって、主人公の名は絶対に出身民族が不明でなければならず、アイデンティティの不在は必要不可欠であった。

宗教戦争も民族紛争も、動機としては相手をコントロールすべく起こすものだ。日本にかつてそういうタイプの戦争の体験はなかったはずだ。
そこで行われてきたものが何だったのか。

もうひとつ感じたこと。
とにかく、すべて疲弊している。
コントロールしようとする側も、される側も。
その背景も、すべてだ。


なんでこの作品がフランスで受けるのかぜんぜん分からない。30万部出たらしいのだが。
2作目なんてもう読みたくない。1作目の終わりまで読んだけど、将来読み進めていくうちに気分的に解決されていくような気がしない。

恣意的に先の暗そうな終わらせかたをしたのか?
わざとだったらひどい話だ。読者を放り投げてどっかに行ってしまうとは。
おかげでこっちは当分暗い気分だ。
この本が出版されたのは1998年。作者自身によると、第2作は2001年に出来るらしい。
3年もこのまま放り出しておくつもりなのか。

うんちく紙に彼のインタビューが載っている。

人間の内面には、なにか恐ろしいものが存在する。(中略)モンスターとは「我々の中に眠っている怪物」のことだ。

彼自身の中にも眠っていて読者の中にも眠っている、という認識なのだろう。そうでなければこういう話の区切り方はできない。そうでないのにこういうやり方をしたら、それはそれでどうかしている。


彼の略歴もうんちく紙に載っていた。

1951年、ユーゴスラビアのベオグラード生まれ。父はリュビュスキ出身のボスニア人。母はカルロヴィ・ヴァリ出身のチェコ人。
1960年、家族でパリに移住。


9才までのバルカン半島だ。そして彼の中に今あるものは。


NHKフランス語会話のインタビューで、登場人物が傷を負っていたり包帯を巻いていたりすることが多いことについて、
「過去の傷が見えるような人が好きだ。そういうものが見えてくると、その人の魅力が見えてくる気がする。」
みたいなことを彼は言っていたが。
それどころではなくて、彼にはそういう人間のことしか目にとまらなくなっているのではないか、そんなことすら思った。
いくらなんでも、そんな人間しか出てこないのはおかしい。

「登場人物が傷を負っていたり包帯を巻いていたりすることが多い」のは、作中人物の表情に出てくる内面だけでは表現したりないものがあるからなのではないか、そんなことを思った。

戦争のことは分からん。

01/06/30


無念 大友克洋 につづく


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