モチベーション
精神科の事前の問診でまず聞かれたことは、この科にかかりたいと自分でリクエストしたのか、それとも先生にそうしろと言われて来たのか、ということだった。
自分で判断して来た、と僕は答えた。
続けて聞かれたことはどうしてこの科に来ようと思ったのか、ということだった。
そのあとは、家族構成、入院前の生活のこと、前に精神科等にかかったことがあるか、そんな質問が続いた。
僕は手短にどんどん答えていった。
問診表に性格の自己診断みたいな表があるのを見つけて、あれは○だこれは違う、と、僕はいろいろ考えながら言っていった。
おととい、リーダーのL先生に話したことがあった。
「心療内科とかがあったら、受診したいんですけど。」
僕には、自分だけで努力してもとりあえず解決しないだろうと思われる気分的な問題があった。
・退院へのモチベーションが見つからないというのがひとつ
・治療効果がいまいちなのは自分が心のどこかで今の環境に満足しているからなのではないか、という疑問がもうひとつだった。
退院後の生活へのモチベーションが見つからないのだ。
例えば、退院してやりたいことがない。
退院しても少なくとも数年は激しい運動はできない。そうなるとサッカーは当分ムリだし、審判でもっと上を目指すのも、もうどうやらムリだ。
仕事がしたいわけではない。ヘタに映画館に行って映画を見るより、ここでNHK教育テレビを見ているほうが楽しい。特別女の子とどこかに出かけたい気分でもない。
ここにいれば、どこかに行く用事はない。ゴハンはおいしい、見たいテレビは見れる。読みたい本も読めるし、聴きたいCDも手に入れて聴くことができる。
むやみによけいな刺激が来ないら、何をするにも集中できる。
外から何かちょっとした刺激があるたびに、それが僕の中まで浸透していくのをゆっくりと聴いている時間がある。形になったら、何かの形でどこかに書いてしまえばよい。
今の僕の生活は、家や近所でひとり遊びをよくしていた頃の僕とあまり変わらない。
最近こういう時間はなかったし、はっきり言ってこれはこれで楽しい。
当初は3,4ヶ月の入院になるでしょう、という話だった。
「これから3,4ヶ月そういう生活が続くのか。」
ぐらいに僕は思っていた。限られた期間をどう過ごそうかと、僕はそれだけを考えていればよかった。
それが、最初に黒ひげの量をちょっと減らしてみたところでそれまでの投薬効果が急におじゃんになってしまい、もういちど黒ひげを同じ要領でやる、ということになった。
やってみると、1回目とまるで同じことをしているのに、1回目より効果が出なかった。
「こうなってみると、どうして1回目であれだけうまく黒ひげが効いたのかな、という気すらします。」
L先生は、そんなことも言った。
でも僕は、治療効果が思うように出なくなったという話になっても、退院の話はとりあえず後回しになったことについては、特別がっかりするようなことはなかった。
それと同時進行して、最近の僕の中にはひとつの仮説が出来上がっていた。
(早く治してしまおうという気が僕の中にないから治療効果が出ないのではないか?)
というのがそれだった。
だるいとか、お腹が痛いとか、そういう類の副作用に今悩んでいるわけではない。
深刻な副作用も、とりあえず今すぐという話ではないらしい。
自覚症状として、この病気からすぐに逃れたいという気持ちがないのだ。
それに、退院後生活についても、ポジティブなイメージが持てなかった。
仕事の話はとりあえず置いておくとしても、退院するとまず、病院に通わなくてはならなくなる。医者のコントロールから遠い場所に身を置くことは、それだけでもリスクだ。それだけではない。食事の心配も自分でしなくてはならない。運動制限を自分で守るのも難しくなるだろう。そういうリスクも負う。
日常のいろんなことに影響を受けて、集中力も落ちるだろう。
それだけの目にあってまでどうして退院しなくてはならないのか、正直よく分からない。
「あんまり経過が良好になってしまったら、醤油でも買ってきて飲まなくてはならないな。」
経過が順調だったころには、僕はそんな冗談すら言ったことがある。
そうなると、風邪は気合で治せとかいうのと同じ理屈だ。
治ろうという気持ちが欠けているから、生体防御機構、例えば自律神経系のどれかが、投薬が目的としている僕の中の何かへの援助を怠けているのではないか、そんな気がしないでもなかった。
僕がそう訴えると、L先生は、そういう話は聞いたことがないが、と断った上で、
「そういうこともありえるかもしれないが、なんとも言えない。」
と答えた。医者としては、そう答えるところだろう。
しかしその一方で、今の状態をいつまでも続けているということには将来的な問題がある。
今はよくても、あまりバシバシと薬を使っていると、そのうち深刻な副作用に悩むことになる。
その心配を今するなら、さらに2つに場合分けをしなくてはならない。
・本人のモチベーションが治療効果に関係してくる場合。
僕は今なんとしてでも、治療へのモチベーションを探さなくてはならない。それはひとつめの「退院への動機づけ」に集約される話になる。
・モチベーションが治療効果に関係しない場合。
それはそれで、将来仮に自分に深刻な副作用が出た場合、そうなっても自分のせいではないと今からきちんと納得しておかないと、それを自分のせいにして必要以上にストレスを感じてしまう可能性がある。
いずれにしても、もう僕ひとりで考えても解決しようがなかった。
僕には、病気回復と社会復帰へのモチベーションが不足している。
「心療内科はないけど、精神科がある。そこでカウンセリングを受けるのがいいだろう。」
L先生は僕にそう言った。
早ければ今日精神科の診察がありますと看護婦さんに今朝言われたとき、僕は中国語会話の感想を書き終わって、他になんとか今日中に書かなければならないと思っていた文章のプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。
ヘルパーのTさんがお迎えに来たときには、僕はそのプレッシャーに押しつぶされて、実際に寝ていたところだった。
精神科での診察室には聞き役の先生とメモ取り役の先生がいて、他に2人の学生さんがいた。
僕は、L先生に言ったこと、問診で話したことをもう一度くりかえして話した。
事前の問診で得られた資料からさらに突っ込まれて、家族構成は二親等に留まらず祖父母の現在の状態と死因、親戚に重大な精神状態の人間はいるかといったこと、大学院を中退したのはどうしてなのか、旅行に行って何がどうだったのか、なんていうこともさらに聞かれた。
聞かれてみるまで考えたこともなかったような問いもあったが、とにかく僕は全部答えた。
宿題を渡された。今手元にある。「YG性格検査」というやつだ。
1.色々な人と知り合いになるのが楽しみである
2.人中ではいつも後ろの方に引っ込んでいる
3.むずかしい問題を考えるのが好きである
とか、そういう質問が120ある。高校入学時なんかにやった記憶がある。会社に入ったときは、やったかな?
「はい」と「いいえ」で答える。どうしても決断できないときは、「どちらともいえない」」だ。
全部やり終えて何を言われるか、僕はもう分かっている。
あと、早ければ来週末にロールシャッハテストをやるらしい。
これは楽しみだ。前からやってみたかったのだ。
どういう質問が出てくるかも楽しみだし、それに僕がどう答えるのかも楽しみだ。
さらにそれに専門家がどう反応するかも非常に楽しみだ。
精神科のある建物は僕の入院病棟とはつながっていない。
シャトルミニバスに載せられて僕は入院病棟の地下に帰って来た。連絡係の人が、僕のフロアーのヘルパーさんを呼んでくれた。
ヘルパーさんを待っている間、途中からだが、僕は備え付けのテレビで「昼どき日本列島」を見た。
今週は瀬戸内海シリーズだ。ゲストは森脇健二だった。(字が違ったら誰か教えて下さい)
海の上で漁礁の下にカメラを伸ばし、
「幻の魚『ニジハタ』を撮影します!」
と、アナウンサーが意気込んでいた。また幻の魚だ。瀬戸内海には幻の魚が多い。
このあたりで繁殖に成功しているらしい。
カメラが漁礁に降りていったが、見える魚は主にクロダイ。他にボラ、メバルが見えたばかりで、ニジハタは2度ほどチラっとその姿を捕らえられたばかりであった。
すると、昨日のうちに捕らえたという、多少元気のないニジハタがいつのまにか隣の船か何かから登場してきた。
「これ、いくらぐらいなんですか?」
森脇健二が漁師さんに問いた。体調48センチ、6kgの魚だ。
漁師さんは答えた。
「6,000円ぐらいですかね。」
(いい魚だ。安い)
そう僕が思うと同時に、森脇健二が叫んだ!
「えー!高い!高級魚!」
そうこうしているうちに、いつのまにか画面の外から大歓声が聞こえてきた。
地元のシラハマ島の人たちが、NHKをお出迎えに砂浜に来ていたのだ。
船はそのまま砂浜に着艇され、スタッフが降りた。
「これから、この幻の高級魚をいただきます!」
とアナウンサーが叫ぶのをまるで合図としたかのように、シラハマ島の人達は速やかにシートの上の適切な配置に適切な方向を向いて座った。
みんなうれしそうだ。シートのこちら側にはニジハタ料理三昧だ。
漁師さんのお薦めであるニジハタのお造り、煮付け、フライ等のメニューが次々に森脇健二の口に入っていき、森脇健二が、
「ボクは今日から、シラハマ健二です!」
と、その喜びのあまりに、島の名前を勝手に自分の名字にして叫んだところで、エンディングテーマが流れ、番組は終わった。
「ちゅらさん」のオープニングが流れはじめたところで、看護婦さんが僕を迎えに来た。
("Kiroro"って、いい曲書くな。)
「ちゅらさん」のオープニングを聴きながら、いまさらながらに、僕はそう思った。
01/06/29
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