Sさんどこへ?

Sさんどこへ?


しばらく空いていた僕の正面のベッドが、空になった。今日、家族の人が片づけていったらしい。

正確には空いていた、というわけではないのだが。
そこには住人が居て、そして常にそこにはいなかった。彼は腎臓病のようだった。詳細は知らない。
彼はひところそのベッドに居て、そしていなくなった、というだけだ。


なんだか、最初からおかしな人だった。

とりあえず、彼はずっと熱を出していた。
39℃の熱が出ているのに、無断で外に出ていっちゃったらしく、夜になって
「夕涼みに行ってました。」
なんて言って、看護婦さんに怒られたりしていた。

昼夜となく、看護婦さんが2時間ごとぐらいに検温に来ていた。
そのときに聞こえてくるのは、
「Sさん、ちゃんと服来て寝て下さい!」
「いや、このほうがいいんだ。本当なんだよ。」
なんていう会話と、それに続く彼のとにかくたいくつな冗句だった。彼にとってのある種の理論があり、高熱を出している状態では、服を着るよりも裸のほうが良策らしかった。
なんだか、人の話をきちんと理解していない感じだった。

「ゴハン、食べられましたか?」
なんて、ことも、次のゴハンが来る直前までしつこく聞かれていた。
この病院のゴハンは、時間がすぎると持ってかれてしまうことになっているのだ。彼が特別食事にルーズだから、特別なんとかしていたらしい。

そんななのに、ある夜の遅い時間に彼のベッドから、体調を崩したように彼の呼吸器に負担がかかっている音がした。
僕はとにかく感染症が怖い。こんなワケのわからんヤツに、ヘンな病気でも移されたらたまらん。それを聞いた夜、僕はマスクをして寝た。
翌朝先生にきちんと確認したら、
「他にもステロイド使っている患者さんもたくさんいますし、問題になりそうだったらすぐに移します。」
という答えが返ってきて安心したのだけど。

彼の印象はほとんど残っていない。僕の記憶の中の彼は、なんだかむくんでいたような気がするだけだ。
ほとんどの時間彼のベッドのカーテンは閉まっていた。今思えばきっと、食事も取らずに高熱を出して裸で寝ていたのだろう。
たまに顔をあわせた記憶もあったような気もするが、よく覚えていない。たいていは彼の顔の記憶が僕の中に焼き付こうとする力より、彼のする話の魅力のなさが僕に彼への興味を失わせる力のほうが強かったのだ。


前の前の週末、彼は外泊していたようだった。
そして帰ってきて、週の中頃のある日、彼が担当の先生とずっと話し込んでいるのが聞こえた。

「ですから、Sさん、このままではよくないんです。今人工透析を途中でやめられてしまうと、こういうことになって、こういうことになって、しまいにこういうことになって、こうなっちゃうんです。お話もよくお伺いしましたし、Sさんのお気持ちも事情も分かりますが、今病院を出られる、というのはどうか、と思います。」

その手の話をやむを得ず大部屋でしてしまう、というのもよほどのことだ。
普通なら、処置室に付設している会議室で行われるべきような会話なのではないか、と思いつつ、僕は聞くともなく聞いていた。
僕にはSさんが今病院を出てしまう、というのはとんでもないリスクに聞こえたが、Sさんは、話をよく理解していなかったようだった。

御家族もまみえてお話会いをしたいと思います、と先生は説得していたが。

僕が注意を払っていなかったそのあとのどこかのある日から、彼の姿は見かけなくなっていた。


今日、Sさんのベッドは事実上の空になった
わずかに置いてあった食器なんかのこまごまとしたものは家族が持ち帰ったらしい。僕は記憶にない。
そのあとでヘルパーさんがベッドメイキングをしていたのは見た。

今日、僕の大部屋で、彼のことがちょっとだけ話題になった。あの先生の話からすれば、彼はいまごろヤバいはずだ。
彼は、今どこの空の下で何をしているのだろう?

01/06/04


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