悲劇詩人は早めに救え

悲劇詩人は早めに救え


夕食後しばらくして、姉に用事があったので公衆電話に行った。公衆電話はロビーにある。
もう今日は寝るだけだったので、そうだ、いっそのこと日記も書いてしまえ、と、電話ボックスにノートも持って行った。

そのときにノートを忘れてしまった、さあたいへん、というドタバタ劇ではない。


19:30前にロビーのソファに座り、日記を書いた。テレビではNHKが流れていて、ニュースで天気予報をやっていた。
「那覇は真夏の陽気、東京は曇り。新潟は、7月上旬並み。」
朝起きてから中国語会話を見るまではのことはどうせHPにアップしてしまうつもりだし、まだまだ時間もあるし、あわてて午前中のことを書くまでもないか、と、僕は天気予報で出た話題をノートに書いていった。
19:30になって、ニュースは終わった。

次の番組は、高校生の合唱のシーンではじまった。
「愛がどうの、やさしい心がどうの。」
とか、そんな歌だ。
「いじめが原因で自殺した十五才の少女が作った詩です。」
そんなナレーションが流れた。

(イヤな予感がする)

なにか啓発的なスローガンに満ちあふれた、感傷的な言動だけをより集めたような番組がはじまるのではないか、僕のキライなパターンだ。そんな気がした。

(この番組から開放されたい)

僕はロビーのメンバーをチェックした。そのとき、ロビーには僕以外に3人の人間がいた。
入院患者のオバサンとその娘は自分たちの会話に夢中だったが、残念ながら、ニュースの継続としてその番組を見入らん、としている別のひとりのオバサンがいた。

(ダメだ)

今、テレビの電源を落としたりチャンネルを変えたりすることはできない。
僕は、日記のついでにCDプレーヤーを持ってきていつでも自分の世界に入れる状態にしなかったことを後悔した。

「やさしすぎてはいけないの」

番組枠自体の題名は分からなかったが、サブタイトルはそういうものだった。
ああ、やれやれ。もう先は見えた。人にやさしいことはいいことだが、自分にもやさしくしてやらなきゃいけないぞ。
それだけ思って、もう日記に集中しようと思ったのだが、やっぱりテレビがうるさくて気になった。
僕の好みでボリュームを調整するわけにもいかない。

番組は、案の定、15才で自殺してしまった、という少女を主役に置いた構成だった。
写真で見る限りなかなかかわいい女の子で、自殺されてしまったのは僕としてはもったいなかった。

・両親は、自分の娘のような人間がもう出てはならないという強い覚悟で「いじめはダメだ」とキャンペーンを張っている。
・その両親が「やさしい心」について彼女が書いた詩をその死後に発見して、適切に最後の行に加筆をした上で彼女のものとして発表した。
・彼女の生前の著作物他が展示される機会があり、そのときに一緒に彼女の生前の「やさしい心」を証言する元同級生が作成したと思われる書類も複数展示された。

そういう感傷的な美談が相次いで紹介された。
僕はもうすっかりロビーで日記を書くのをあきらめて、部屋に戻った。


まだ相手が15才だから詩人として未熟だ、と判断されたのだろう。
命懸けで書いた人の作品に、本人の同意も得ないのに
「このほうがいいと思った。」
と人が勝手に改変を加えた、というのもひどい話だ。
作者である彼女を、一個の人間として見る前に未熟な個体としてとらえている。
彼女としては、あえてそこでよけいなことは書かないべきだ、というネライがあったかもしれないのに。
それはもう彼女の作品ではない。別の何かだ。
そのことについてコメントする彼女のお母さんの口調は、
「私の解釈したとおりにつけ加えをすることが、正しいことなんです。」
と言わんかというばかりだった。

元同級生の作った書類というのは、どれも同じような材質の紙で出来ていて、どれも同じようにイルカやらなんやらの適当な象形に加工されている中に、思い思いの絵柄やフォントで工夫されて書かれていた。
優秀な作品は展示します、とまで言われたかどうかは分からないが、たぶん何かの機会に、一種のコンペティションとしてその書類作成が行なわれたのだろう。


この手の悲劇的な主人公が活躍する番組についてコメントすることはどうしてもタブー視されてしまうのだが。
悲劇的な主人公を神格化して扱うことを美徳として構成するような話にはついていけない。
この手の話は、なにかにつけてその悲劇性ばかりが強調されて、肝心の議論がおろそかになる。

彼女の「やさしい心」を証言する書類なんて、その典型だ。
コンペティションの参加者は、一様に彼女の「やさしい心」を強調するようないいところを思い出して探すように課題を与えられ、それを達成することでなんらかの褒美をもらえる。
いつのまにか、そういう構図に疑問を持つことは許されなくなる。
そうであるのは、主人公が悲劇的であるからだ。
同じ目にあっていても、その主人公がそこまで悲劇的な事態に陥っていなければ、何か別の対処をしただろうに。

そういう話はぜんぶ差し置いて、こういう番組は、もう
「ほら、みんなこんなに悲しんでいます。いじめはいけない。やめましょう。」
というキャンペーンまっしぐらだ。そして、そういう論調に違和感を感じる人間は、僕みたいになんとなくその場に居辛い気分になってしまう。


「医療ミスはあってはならない。」
とかいうのと、まるで同じ話だ。そんなこと言っても、何百万人という人間が学校に通っていて、例えば医療現場の人材が「医療ミスはあってはならない」という教育を受けるのと同じようには彼らの全てが「いじめはダメだ」という教育を受けてくるわけではない。
ダメだ、と言われたぐらいでなくなる問題ではない。

どうせ正しいありかたを考えるのならば、
「いじめを受けた→死ぬ」
という思考しか彼女になかったのはどうしてなのか、という話を主題に持って来て欲しい。

「いじめを受けた→死んだ→ひどい話だ」
という構成は、
「医療ミスがあった→死んだ→ひどい話だ」
というのと、ある種同じだ。はっきり言えばどこでだって誰にだって絶対に起こりうる話だ。
それでも、どこかで何か手順のミスがあっても、リカバーする側の対応がしっかりしていれば、悲劇に落ちるまでになんとかなることもある。
実際には最初の矢印のところで先に進むには、もっといろんな段階があるのだ。
そういう議論をすっとばしてしまうのはどうかと思う。


彼女はまだ15才だったからすぐに気分的に追いつめられてしまったのだろうが。
そこまで追い込んでしまたったのは、いじめ自体もそうだろうが、実は彼女のまわりの環境だったのではないか、という話もちゃんとして欲しい。
彼女は高校に入ってたった3ヶ月で死んでしまったのだ。

例えば、彼女の両親は彼女が学校でいじめを受けているらしいとまでは分かっていたが、まさか死ぬとまでは思っていなかったらしい。
「ショックだった。」と彼らは言っていた。
でも僕から言わせれば、彼らは彼女の書いた詩に勝手に改変を加えるような人たちだ。
そういうことに、違和感を感じないのか?
彼女は、そういう扱いをしてくる両親には何も相談できなかったのかもしれない。


「いじめはいけない。」
なんていうスローガンには、もう僕はいまさら興味がない。何を言い出すのかは、僕にはもうだいたいの見当がつく。

どうせなら、
「これからのある人を救えなかったのはなぜなのか。」
という話をして欲しい。そういう話なら、是非聞きたいものだ。

01/06/22


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