明明何処?
前回の再放送の後に「NHKマニアの友人」にメールをしたら、すぐに返事が来た。
> 中国語会話の番組の終わりで明明が出てくるのは、
> バーのカウンターにあるAIHARAボトルの陰から。
> 明明はジゴロの部屋で盗み聞きして中国語の練習をしている、
> という設定なので、
> ジゴロの部屋のどこにAIHARAボトルがあるか、
> どこかに明明が隠れていないか、と探してみました。
あ〜、明明のことだったんですか。
これは既述かも知れませんが、去年も中文快速にこっそり乗っていて聞いていた設定でした。
彼にはかなわない。所詮僕なんて、掌の上だ。
で、今日も血眼になって明明の姿を探したのだが、見つからなかった。
最初の「ジゴロの部屋」のほうで後ろのガラス戸棚の右下のほうに怪しい影があったといえばあったのだが、たぶん違うだろう。
あと、バーのお酒の配置も前回と微妙に変わっていた気がしたし、最後の「明明来来」でもやっぱり前回放送と背景のお酒やグラスの配置が違ったような気もした。ただ、これは僕の記憶のほうがいいかげんな可能性が高いからまだなんとも言えない。
おまけに、今日は「明明来来」で明明が登場するボトルのほうを確認しないで背景ばかりに注目してしまったので、明明が出て来たのがいつものAIHARAボトルだったかちょっと確認できなかった。そうだったとは思うのだが。
中国人俳優「姜武」インタビューがあった。北京人情銭湯ロマンみたいな映画で彼は知的障害の次男役をやっているそうだ。
「昨今では人と人との情感が薄れてきていて、みんな自分のことで精一杯だ。家族、親戚、友人との関係がなおざりになっているが、そういうのはいかん。情感はお金では買えないのだ。」
みたいなことを何かの話の流れの中で彼が言っていたが。
ギリシャの昔から言われているようなことだなぁ、と思った。
情報ツールやらなんやらが登場してきて、世の中便利になった。
僕は入院中にもかかわらず、ネット通販で書籍やらCDやらを購入して、自由に聴いている。
話たい相手には電話ができるし、ノートパソコンとインターネット回線を利用して、メールを書いたり「あなろぐのいず」なんか書いたりして近況をまとめて公開している。
大病であるという点を除いて、まるで健康で文化的な生活だ。
一昔前の入院生活には考えられない話だ。
ちょっと前なら、入院患者の状況は外からはブラック・ボックスだった。それはこっちからも同じことなのだが。
とにかく、拘束されて自由が利かないというのが入院患者の従来のイメージだった。
欲しいものは手に入らない、人と連絡を取ることもままならない。
そりゃピンピンしていてどこでもウロウロできる状態に比べればまだまだだが、今の僕ぐらいでも十分に技術革新の恩恵受けまくりである。
先日にきてくれたお見舞い客は、「さぞかし退屈だろう」と司馬遼太郎の文庫本を何冊も持ってきてくれた。自分の数年前の入院生活で感じた不便を配慮してのことだ、と彼は言った。
僕の姉には、だいぶ前にスキーでケガをして家で療養していたときは、クロスワードパズルとマンガ雑誌ぐらいしか時間を潰すツールがなかった。
で、今の僕が入院前と比べて人との交流が減っているかと言えば。
まあ、自覚症状的に重大な問題もないタイプの病気だ、ということもあるのだが。
電話代がかかる以外に、はっきり言ってそんなに変わらない。電話代ぐらいは、入院しているぐらいなのだから仕方がない。人と会う時間は減ったが、その代りに移動にかかる時間は僕のほうでは減ったから、たとえばメールを書いたりする時間は増えた。
もしも一昔前に僕が入院していたとして、今ぐらいに外の人と交流できただろうか?
きっとあと数千年人類が生き延びていたとしても、やはり「今は昔に比べて人情がなくなった。」という人は出つづけるだろう。
時代は変化していくし、それにあわせて出来ることをしていけばよいのではないか、という気がする。
電話だって、なかったころに比べれば遠くの人と交流するのをだいぶ容易しているはずだ。
僕は入院する前の前の日に、サンチャゴに住んでいるチリ人の友人に電話したぞ。
それでも今のほうが「情感が薄い」のか?
そのときにある新しいやり方で出来る、適切な方法というものはあるはずなのだ。
温故もいいけど、知新も大事だぞ。まあ、どっちも大事なのだが。
個人的には、「温故知新」という言葉は、「温故」の動機づけとして使われる機会のほうが「知新」に対するそれよりも有力で結構不満だ。
筋の通った話を「へ理屈だ」といわれるときぐらいに不満だ。
人間は生物なのだし、情感なんて、そんな有史の数千年ぐらいでは大きく変化するわけがないのだ。
01/06/29
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