N響アワーをもっと楽しむ法

N響アワーをもっと楽しむ法


入院してから、クラシックを聴くようになった。僕はびよらじょーく作家だが、それまでは、クラシックはまるで聴いたことがなかった、と言って差し支えない。
入院直後に最初に思いついたポジティブな入院生活は、毎日ゆっくりクラシックを聴く、というものだった。さっそく僕は、オヤジに、彼が昔買ったきりまるで聴かれていないクラシックCD全集を持って来て欲しい、とリクエストした。

(ゆっくりした時間、最低でも直近の数時間に連続して別のスタイルの用事がないこと)

これらが、なんとなくイメージしていたクラシックをゆっくり聴くために必要な用件だった。
前からそういう機会が欲しい、とは思っていたところに、安静にする以外にどうしようもない、という病気にかかってしまった。そういう時期だ、と僕は思った。

最近は、ベートーベンの「田園」、モーツァルトの「40番」ばかりを聴いている。最初はどんどんいろんなCDを聴いていこう、と思っていたのだが、途中で特別気に入ってしまい、それっきりだ。
バックパッカーが言うところの「沈没」というところだ。
そのうち他に行って聴かなくなるかな、とも思っていたが、そういう気配はない。たまに他のCDも聴いたりするが、すぐに聴かなくなって戻ってきてしまう。早い話が、気に入ったらしかった。

この2つでは、のんびりしたいときは「田園」、ちょっと落ち着かない気分のときは「40番」と、大体の場合分けがなされている。どっちも、ノートやパソコンに書き物をしているときにもかけるときが多い。


N響アワーは、作曲家の池辺晋一郎のトーク、檀ふみの司会進行で進んでいくのだが。

池辺晋一郎は、さすが、である。アタマのよさそうな感じだ。
彼のことは、まんざら何も知らない、というよりは、知っているほうだ。高校で合唱部だったとき、僕は彼の作曲の歌でコンクールに出ることになって、必死になって練習していたことがある。
せいぜいそのぐらいのつきあいだが、それでも何もないよりはぜんぜんある。
たまになにかの偶然でチャンネルがNHKに合ったときに「N響アワー」で池辺晋一郎がしゃべっているのを見ると、「ああ、池辺晋一郎だ。」と思って見ていた。

そのときは、檀ふみには何も思わなかったのだが。
これが、檀ふみにはまいった。ちゃんと見たのははじめてだが、あれはとんでもない怪物だ。
NHKにこんな人間が出てくるとは。

それでも僕は、番組の途中までは池辺晋一郎の発言をひとつも聞き漏らすまい、としてがんばって彼女が発言するあいだもイヤホンをはずさないでいたのだが、番組が30分もするころにはもうそれは不可能になっていた。僕は画面に集中して、なるべく池辺晋一郎がこれからしゃべろう、という雰囲気になるときを感じてイヤホンを耳に入れ、檀ふみがなにか驚嘆しそうな気がしたらイヤホンをはずす、という行為をくりかえしていたのだが、思うように成果が出ず、そのうちにそんな努力がなんだか虚しくなって来てしまった。

池辺晋一郎にくだらないダジャレを言わせているのは、彼自身ではない。檀ふみだ。
ダジャレが出てくるというのは、だいたい相手と自分の思考のリズムにギャップがあるときだ。
彼女のレベルが池辺晋一郎に追いついていないから、リズムを崩してときどきああやっておかしくしないと、調子が合わせられないのだ。
というか、彼女は自分のことで一生懸命すぎる。あれは聞き役ではない。彼女は、自分に一生懸命になる前に、まず手元にいる池辺晋一郎からもっといろいろひっぱりだす努力をしたほうがよい。
彼は自分の能力をもてあそんでいる。彼の能力をもっと引っぱり出して、それにあわせたほうがぜんぜん自分も引き立つはずだ。今の状態は、お互いにもったいないぞ。

もっとも、彼にダジャレを言うヒマも惜しませ全力集中させる相手、というのも難しいが。
そんなの、この番組の聞き役をなし得る候補にあがる人間にはいないかもしれない。
自分を使いきって汗をかく池辺晋一郎というのを見てみたいが、彼は優秀すぎる。そんな彼をテレビで見ることは容易ではないだろう。


「選択的に音声を消せれば解説者2人だけ聞こえるようにするんだがなあ。だれかそういうテレビ作ってくれないだろうか。」

こないだのコンフェデレーションズ・カップ日本-ブラジル戦のあと、「ナガサカ某の実況があまりにもひどい。」と僕が思い余ってしたメールに対してきたサッカーの友達からの返信には、そういうくだりがあった。

「くだらない発言をする出演者を根本から排除するのではなく、こちらで対処したほうがよい、とはすごいことを思いつくね。」

僕は、そのときそう返信した。
池辺晋一郎とN響の音だけを選択的に聴けるテレビがほしい。できれば、ついでにブラウン管にも細工をしてほしい。そうすれば、N響はもっとおもしろく集中できる番組になるのに。


番組のあたまのほうはちょっと見れなかったのだが、フォーレ編曲、かな?の「シチリア舞曲」と、モーツァルトの「40番」、「41番」が紹介された。

シチリア舞曲は、旋律は前から知っていたのだが、そういうタイトルの曲だと知ったのは、こないだのN響がはじめてだった。
昨日さっそく amazon.co.jp で検索して探してみたのだが、それだけではうまいぐあいに見つけられなかった。欲しいCDはタイトルでないと、曲名からではなかなか見つかるものではない。
フルートのソロがとてもよかったのだが。

モーツァルトの「40番」、「41番」は僕の手もとのCDにセットで入っている。
のだが、40番はいつも好んで聴いているのだが、41番は僕はぜんぜん聴かない。
たまに40番を聴いていて何かの用事でイヤホンから耳をはずして、しばらくしてイヤホンをつけなおしてみると40番はもう終わっていて41番をやっていた、ということもあるのだが、そういうときでも、ちょっとして自分でCDを止めてしまうか、また40番を最初から聴くかどちらかだ。

41番を聴いていると、なんか僕は、理数科が得意なデキのいい中学生がまるで気が乗らない塾の数学の宿題をやらされているような表情でモーツァルトがこの曲を描いていたのではないか、という気がしてくるのだ。

01/06/19


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