ガンコオヤジの心境変化

ガンコオヤジの心境変化


新日曜美術館では、風景画家の中川一政が紹介された。数年前に90代後半で死んでしまう直前まで現役だったという人物だった。

10代後半に油絵の道具を人からもらったのがきっかけで画を描くようになった。貧乏だったので画学校にはいかなかった。自然を相手にとにかくどんどん画を描いていった。
そのうち認められて画の有力グループに入ったが、リーダーと反りが合わず後には関係がなくなった。
最後は神奈川の真鶴に死ぬまで40年住みついて、最初の20年は真鶴の漁港の同じような場所でひたすら描き、それから一時期はやたらバラに凝ってバラばかり描き、そのあとは箱根連峰駒ヶ岳に凝って駒ヶ岳ばかり16年描いていた。

そんなプロフィールだった。


中川安奈という人物が案内役であった。
中川一政の孫娘で、舞台、映画で活躍する女優というプロフィールであった。

彼女が10才ぐらいのころの春に一政によって描かれた肖像画というものが紹介された。
「おじいちゃんが描いてくれた肖像画はこれ1枚なんです。」
彼女がそういうその絵は、ちょっと異様な目、鼻、口の配置だった。
要するに、捻じ曲がっていた。

「ひねくれた子どもだったから、こういう描かれ方をされたのかな。」
大人になった彼女がその絵を見ながらそう言った。当時はそうは思わなかったけど、自分に似ている、よく描けた画だと思う。そういうことを彼女が言った。
僕は、その肖像画は、10才当時の彼女の写真より、むしろ現在の彼女によく似ていると思った。

僕が最初に興味を持ったのは、風景画家である一政が、なぜ彼女の10才頃の春休みに、そして、どうしてそのとき「だけ」に彼女の肖像を描こうと思ったのかということだった。
番組の中で彼の描いた多くの絵が紹介され、後には書や陶器作りもしたというプロフィールも出てきたのだが、出てきた肖像画はついにそれ1枚だけであった。

中川安奈が中川一政を紹介するに足る人物であることを強調するために持ち出してきた材料なのだろうが。
テレビを見ているときは彼女は35,6才という印象だったが、今ネットで調べてみたら、なるほど1965年生まれということであった。
一政が彼女の肖像を描いたのは、1975年ぐらい、その死の20年ぐらい前のことになる。
時期的には、真鶴の漁港の絵を描くのに区切りをつけて、バラの絵を描きはじめたかどうかというころか。


「とっつきにくい人だった。」
「いつも闘っている感じだった。」
「落ち着かない人だった。」

絵を描かれた当時、彼女にとっておじいちゃんは怖い人だったそうだ。
彼女をアトリエのイスに座らせて、無言で機嫌悪そうに絵を描いている。話をするでもない。
そんな日が何日も続いて、かなりイヤ気がさしたそうだ。


彼の生前の人物を伺えるプロフィールがいくつも紹介された。
このあいだまで生きていた人間だから、存命の知人も多い。

彼と共に中国を旅行したというやはり高齢の画家さん。
「僕は毎日絵日記をつけていたんだけど、それについて彼が言ったんだ。『そんなものは僕はつけない。』ってね。見えてるものにとらわれるな、という意味だったんだと思う。」

スタジオに来ていた某美術大学付属中・高校の校長。
みんなで集まって彼の家にあそびに行ったとき、はめていた軍手の先っぽがほつれたか何かしたそうだ。
「それで、家の人に指先のほつれを切ってもらおうとしたとき、冗談で『手が商売道具だから、手まで切っちゃわないでくださいね。』と言ったら、『ほう。君は、手で絵を描いているのか。』と言われまして。」
手先で絵を描くなみたいなことは普段からよく言われることだ。指摘されてハッとしてしまって、自分は凍った。
「それ以上追求されないで済んだので、「みねうち」にされるぐらいで済んだ、という気分でしたが、イヤ、時間が止まったように感じましたね。」
己の全体をかけて絵を描けと言いたいのだろうと感じた、と言って彼はそのエピソードの紹介を閉めた。


彼の書いた文章がナレーションで流れた。

「『美』術なんだからきれいでなくてはならない」なんて言う人もいるが、きたなくていいのだ。大事なことは、絵の中のものが生きていることだ。

私は美術を脱したのだ。

風景に立ち向かったときに自分に出てきたものが「絵」なのだ。

もう少し仕事しなきゃダメだ。
もっと仕事する人間になりたい。


彼の生原稿はある意味画風どおりで、字が大きく、修正、挿入がいっぱいだった。
床の間には彼の書いた掛け軸があって、「正念場」と書かれていた。


「死んでしまったらどんな人間でもみな『仏様』になってしまうとは、仏教というのはなんという感動的なシステムなのだろう。」
そんなことをさくらももこが「もものかんづめ」だか何かのエッセイで書いていた。
まったくそのとおりだと思う。

死人のエピソードの背景には、常に考え得る最高のものが用意される。
彼の生前の行動の不明な部分はたいてい善行であり、その性格は知人に知られていない部分でほとんどすばらしく、その言動には、判明しない部分には必ず配慮と慈しみが溢れている。


「私は美術を脱したのだ」

なんて、生きている人間が声に出して言うのはなかなか聞けるものではない。
死人ならではの感動的発言だ。

宴の席でのたわいもない冗談に厳しい追及を入れて、場を凍らせて楽しんでいる。
美大付属高の校長の感想どおりの話なら、「みねうち」なんていうものではない。

そんな言われ方をされて「ハッ」としてしまうようなら、所詮その校長もたいしたことはないのだろう。
自分は手先で絵を描いているという意識が常にどこかであるから、指摘されて凍りついてしまったのだ。
そんなことは思っていなかったのなら、「ハハハ。ごもっとも。」で済んだはずだ。

そういうスキのある相手だということを見越した上で、中川一政はそういう言い方をしている。
話の流れとしては、彼が反射的にそう言ったという雰囲気だった。
農民にイチャモンをつけて刃物をちらつかせる浪人のようなヤツだと思った。
侍をみねうちにするより始末が悪い。

絵日記を書きながら旅行するという友人のスタイルにケチはつける。
退屈してイヤがる孫娘をムリヤリ座らせて自分は絵を描きつづける。

彼の生前に絵を描いている様子がビデオで流れたが。
これも見ていて好きになれなかった。

同じ場所をテーマにしながらもいろんな書き方で絵を描いていったあたりはすごいとは思ったが。
ただの、ひねくれ者のガンコおやじだ。
もしも身近にいる生きている人間の話として聞いたら、きっとあきれただろう。


とにかく、人によく噛みつくヤツだと思った。
何がそんなに不満なんだ?

女子美高の校長の話がいいヒントになる、と思った。
反射的に人に厳しいことを言う人は、得てして自分に対してもそういう意識を持っている。

プロフィールに戻るが、彼は美術学校には行っていないのだ。
「師は自然」というセザンヌの言葉を頼りに、全部独学で、自分で工夫していくことでなんとかやってきた人だ。おそらく、相当の苦労があったのだろうと思う。
番組では、彼が画家を志すまでの流れはあまり詳しくは紹介されなかった。

そして、業界で認められ、有望な同人の会に招かれる。
そこで彼は座長の画家と仲たがいを起こしてしまったということだったが。
ちゃんと記憶してないが、相手は、割と聡明なタイプのちゃんとした美術学校を出たエリートキャリアっぽい人物だったのではなかったかな?
そういう彼と彼のまわりの仲間。
貧乏な家の出身で板切れに油絵を描いたりして独学だけで道を切り開いて来た中川一政。
彼らの間で広くなってしまった溝は、そもそも何だったのだろう?
お金があって学校に通って仲間と共に腕を磨いて来た人達との出会いで、彼は何を思ったのだろう?

「私は師匠などいない。絵を見てもらいに人のところに行ったことなどない。自然が私の師だ。」
そういう言葉もあったが、どうも後になって考えると、それは彼のやせがまんにしかすぎないように感じられてきた。

彼自身は、自分の技法をどう評価していたのだろう?
「美術を脱した。」と言っていたな。彼の言う「美術」とは、何だ?
そしてその一方で、「もっと仕事しなきゃダメだ。」という言い方もしている。

ダメ出しから入る人間は、たいてい自分に不満を持っている。
おそらく、彼は最後まで自分に不満だったのではないかと感じた。
彼を駆り立てていたのは、自分自身への不満なのではないかとすらも思った。


同人のグループを飛び出して、彼は風景を描きつづけた。
そのうち、真鶴に住みつき、そこで漁港の絵を描くようになる。

彼がそれに区切りをつけるころと、彼が孫娘の絵を描いたのはほぼ同時期だ。
20年続けて来た真鶴の漁港での絵描きから目先を変えたとき、彼の思っていたことは何だったのだろう。
むずがる孫娘をアトリエのイスに縛りつけてまで彼に絵を描かせていたものは何だったのだろう。
どうして彼の仕上げた絵は、目、鼻、口が捻じ曲がっていたのだろう。

風景に立ち向かったときに自分に出てきたものが「絵」なのだ。

そうも言っていたな。彼は、彼女の中に何を見たのだ?
新しい被写体を求めていたときに目にとまったのは、自分の孫娘の中の歪みだったのではなかったろうか?
彼女の前に立ち向かったとき、自分の中に出て来たものは、歪んだ人間そのものだったのではないだろうか?


もちろん、全部想像だ。
僕は、彼が孫娘の絵を描こうとした動機を考えてみただけのことである。

中川一政に対してにしろ、中川安奈に対してにしろ、女子美高の校長に対してにしろ、感じた印象は僕のものであり、書いている対象に僕が感じたことは、要するに、僕が僕自身に対して感じていることでもあるのだろう。
きっと、僕は、彼らの一部に共鳴しただけだ。

1枚だけだった理由はいろいろ考えられすぎてなんとも言えない。
いろんなことがあって機会に恵まれなかっただけかもしれないし、孫娘があんまり嫌がるので、描いている途中に、もうこれで最後にしようと思ったのかもしれない。
他の孫も近くにいたとかそういう話でもなかったし、やっぱり孫娘ぐらいは画家として描かなきゃならん、とかそういうぐらいのことだったのかもしれない。
1枚でもう十分に満足したのかもしれない。描いてはみたが、結局満足しなかったというだけのことなのかもしれない。

ただ、やっぱり当時の何か心境の変化の流れではあっただろうとは思うのだ。
なぜ、10才のときの孫娘だったのか。
とにかく、当時の彼にしか分からない何かがあったのではなかろうかと、僕は思った。

01/07/09


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