ステレオタイプ

ステレオタイプ


「イタリア人が海外製品に求めているものは、ファッション性よりもむしろ機能性です。海外製品よりもイタリア製品のほうがファッション性に優れているということを、イタリア人は知っているからです。」

例えば、自分がイタリアのミラノまで日本製の日用プラスチック製品を売り込みに行ったとする。
色、大きさ、形状すべてに自信があった。
でも、そこに品のいいスーツを着た現地にある販売店の担当者が出て来てそう言ってきた。
どう感じるだろうか。


今日のトラブル・スポットは、自社商品の実用性を強調したマーケティングを展開したい、というスペインからの顧客に対し、日本の販売店が、
「日本では、海外製品に実用的な機能は期待していません。日本製品は、こういった点に優れていることが知られているからです。」
と言ってしまい、
「それはステレオタイプな見方だ。」
と反駁されて窮してしまう、というものだった。


スペインからの顧客は間髪を入れずに反駁してきた。
逆のシチュエーションになった場合、僕がすぐに反駁したかどうか、正直に言って僕には自信がない。
むしろ、自分の持っている知識を動員して、相手の意見の根拠となりそうな事象を探してしまいそうだ。

つい「日本人とは・・・」という説明をしてしまうことがありますが、日本人以外の人にとってはとうてい納得できる論旨ではありません。なぜそうなのかという論理的な根拠がまったくないからです。

テキストにはそういう書き方がされていた。
「ステレオタイプ」という言葉をスペインの会社社長は使っていた。


ステレオタイプな「日本は」「日本人は」という話の進め方には違和感を感じる、という言い方は、メールマガジン
Japan Mail Mediaでも主宰の村上龍がよく言っている言葉だ。
「そういう捉え方はこれからの日本では無理になっていくのではないか。」
というような言い方がよく見られるのだが。

善悪は別問題として、そうやってステレオタイプに括っていくという手法は話を簡単にするために便利な方法だし、括ったときに漏れていくものだけをいちいち例外として扱っていけばいいのだし、ステレオタイプな括り型というのは、そういう手法を使うことで利益を得る人達がいる限り結局なくならない気がする。今利益を得ている人が将来利益を得なくなるかもしれないが、そのときにはまた、きっと別の誰かがそうすることで利益を得るようになっていることだろう。

「アメリカ人」に対してだって、
「古代ギリシャ人」に対してだって、
「宇宙人」に対してだってそうだ。


最初に話を戻すが。

考えてみて僕は、ステレオタイプな括り型をされた話を聞いたときに、まず進んでその考え方を受け入れようとする自分を見つけた。
理系の悲しい性だろうか?よく分からない。なんとなく、日本人はそういうステレオタイプなものの見方に弱いのではないか、という気もした。
そう思うところですでにステレオタイプか。


このトラブル・スポット自体は日本側広告代理店が図表を用いて販売店の見解を側面から支えて収束していった。
以前Yamamotoさんも、同じように「日本の技術者はよく働きますから」みたいなことを言って場をシラけさせていたな。
そのときも、「根拠に欠けたいいかげんなことを言うな。」みたいな田中先生の話だった。

代理店が資料を用意していたから、要するにこれでよかったわけだ。最初から、トラブル・スポットだったわけでもなんでもない。
突っ込まれて窮してしまうようならいい加減なことは言わないほうがいいし、言うなら準備をしておけ、というようなところか。
他人事ではないな、と思う。
ステレオタイプに括ってしまうなんて、僕もうっかり使ってしまいそうな表現方法だ。
うっかりどころか、きっとやってしまうだろうという気がする。
明日の僕は販売店かもしれない。


・フィードバックを得やすいフレーズ
共同でアイデアを練る場面で自分の意見を伝える場合には、Talk with people, not at them.(人に向かって話すのではなく、一緒に話すこと)とよく言われます。つまり、一方的にではなく、相手が意見を言えるように話しなさいということです。相手が意見を言わない場合は、そこで自分が自分の質問に続けて答える形で話を進めていけばいいのです。

・やんわりと反論するフレーズ
協力を目的とした話し合いの中で、お互いの意見を攻撃しあうのは危険を伴ないます。相違点だけが強調されて、共通の目的が見えなくなってしまうからです。


Key Expressions のところで出て来たのだが。
なんだか、ビジネス交渉の話というより、メールでのケンカ腰の議論についての話なのかというような印象を持った。

ときどき、人の意見をコントロールしようという意図の明確なメールが人間関係を大混乱に落としていくのを見かける。
20世紀の終わりまでは誰も体験しなかった類のものだ。
生身で話していればなんでもないようなことでも、活字になるとかなり怖い。活字のトーンは受け手の解釈で読まれるから、書き手のニュアンスもいまいち伝わらない。
僕自身も巻き込まれたことが何度もあるし、僕以外の人どうしがそうやって泥沼の議論を果てしなく続けていくのを見たことも何度もある。

"Agree or disagree?"

長い論述を添えてこれしか聞いてこないメールを送ってくる人間は、どうかしているのではないかと思ってしまう。
およそ見解の共通点を見つけて妥協していこうという態度ではない。

相変わらずそういうメールをあちこちで見かけることから察するに、メールでのコミュニケーションに本当に人類が慣れていくには、まだまだ時間がかかるのであろう。

01/07/11


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