別世界への旅行

別世界への旅行


「こねさーん、お迎え来ましたよ。」

ヘルパーのAさんが来た。ああ、やれやれ、と僕は思った。行きたくなかったのだ。検査なんか。
時計を見た。午後3時半になろうか、というところだった。

僕はそのとき、HPのメンテナンスをしていた。午前中に書いてしまってとりあえずアップした「NHKフランス語会話」感想を読み直して、いろいろな手直しをしていたのだ。

僕は、いったん書いてアップしたHPを結構こまめに修正している。だいたい内容が安定してくるのは、アップしてから1週間後ぐらいまでの話だ。それまでは結構頻繁な修正がある。
ちょうどその作業中だった。

こまかい語順、表現の修正、読みやすさの検討なんかもそうだったが、僕はそのとき、午前中に書いたものにさらにちょっとしたいくつかの段落を付け加えよう、としていたところだった。
例の「NHKマニアの友人」から来たメールの一部を転載しようとして考えていたのだ。

5時からはコンフェデレーションズ・カップの日本-オーストラリア戦を見なくてはならない。
びよらじょーくの「めいきんぐ・おぶ」も、時間とモチベーションが共存する時間がなかなかなくて書けていない。

要するに、気分的に忙しかった。僕は今他にやりたいことがあった。
そう思うと、いろいろと面倒な気分だった。


そして、もうひとつ理由があった。
僕はもうその検査は必要ない、と思っていたのだ。

「原因は分からないが、とにかく当初想定していたいちばんいいシナリオからは外れている。」

チームリーダーの先生から先週そう聞かされたとき、僕にはもうひとつ気がかりなことがあった。
薬の副作用のことだった。

投薬開始から2週間ぐらいが経とうとしていた。
僕は当初からいろいろとこまめに先生に現在のコンディションについて話をしていたのだが、あんまりこまごましたことまで僕が言うものだから(まあ、そうしたほうがよい、というのが当然と言えば当然なのだが)、
「副作用がでやすい体質なんじゃないか?」
なんていう話が同じ時期にちょっと出てきていたのだ。

で、また、ちょうどそのころ、僕は目が疲れている感じだった。
「視界に蚊が飛んでいるような感じ、しない?」
僕が目がどうのこうの、と言ってみたら、先生はそういう質問をしてきた。
そういえば、なんとなくそんな気もしないではない。というか、厳密にはしている気がする。
目が痛い気もする。

目にくる副作用もあるにはあるが、それは今の薬を使って使ってだいぶ先の話だ。
副作用ではないだろう。おそらくテレビの見過ぎか何かだ、どうせ疲れ目だ、という話だったのだが、
「とにかく、調べておくか。」
ということで、眼科の検査に行くことにしたのだ。


でも、それはもう1週間前の話だった。週明けにはもうすっかりなんともなかった。
早い話が、ちょっと気にかけすぎていたのだろう。
当時の僕は心配していたが、今の僕は気にしていなかった。

「検査ぐらいは別にしておいて無駄ではないよな。」
とは思ったのだけど、
「しておいたほうがいい。」
という程度のモチベーションだったら、何もいますぐやりたい、とは思わない。
なんて思いつついざ当日になってみると、それはやっぱり面倒な用事でしかなかった。


しかし、眼科のオーダーだけは残っていた。明日眼科の検査がある、と、昨日僕は看護婦さんから聞いた。
昨日すでにやれやれと思っていたのだが、やっぱり今日も言われた。午後から、ということだった。
僕は、いつくるか、いつくるか、あるいは何かの間違いで来なければよいのだが、などと思いつつ、今日の午後の数時間を過ごした。

だいたい、そうでなくても僕はとにかく安静にしていることが要求されている状態なのだ。動き回るのは、いやだった。
前の検査のあと、僕はもう、2週間このフロアから一歩も外に出ていなかった。


しかしまあ、もちろん行くよりなかった。Aさんはちゃきちゃきと僕を車イスに乗っけて、エレベーターまで運んだ。
エレベーターはほどなくして来た。めずらしく無人だった。

「マスク美人だよね。」
新しく同部屋になったOさんが、彼女のことをそう言っていた。彼女はちゃきちゃきしていて、目立つ。ちゃきちゃきしているから、江戸っ子の可能性すらある。

「いつかAさんのマスクを取るんだ。」
冗談混じりにそんなことも言っていた。

Oさんは手術をしたっきりまだ動けない。Aさんがこの部屋にやってくるときは必ずマスクをしているので、彼は彼女のマスクを取った顔を知らないのだ。
マスクを取っても、彼女は端正な顔立ちをした美人だ。

エレベーターを降りて、僕はびっくりした。


空気の臭いがぜんぜん違った。汗と、湿気に溢れている。
フロアにいる人の表情も違う。厳しい緊張感がある。僕の病棟内とはエライ違いだ。

(退院したら、ここに戻ってくるのか?)

まるで馴染めなかった。別世界だった。

その臭いから僕はまっさきに思い出した風景があった。
アメリカのデトロイト空港だ。そこは僕がはじめて海外旅行をした、最初に降りたった空港だった。そのときに感じた臭いにそれはひどく似ていた。それはアメリカの湿気と、アメリカ人の汗の臭いの記憶だった。
そのときも、こう、暑くて、湿気があって、人の汗の臭いがした。まわりの人がみな背が高く見えるのは車イスのせいもあるだろうが、見慣れない格好をしている。

(ここは、本当に普段僕が住んでいた世界なのだろうか?)

このあいだここに来たときにはそんなことはまるで感じなかった。
僕の病棟と外界の違いなんて。いや、それ以前に、そもそも違和感を感じるような対象ではなかったはずだ。
だいたい、ここは日本の東京だ。

わずか2週間の間にこんなに変わってしまうのか?
いや、変わったのは果たして僕のほうなのか、外界のほうなのか・・・
そういえば、梅雨入りしたと誰かが言っていた。梅雨入りすると、世界はこんなに変わるものなのか?

僕は驚いた、とAさんに言った。

検査をする隣の建物との間の渡りは見たこともない近未来的な空間になっている。
この前通ったところなのに、今通って見るとまるで別の世界の一部だ。

上半分が半円系にガラス張りになっていて、外は雨らしい。そのガラスに雨が打ちつけていた。

(雨だったんだ・・・)

今日、僕は一度しか窓の外を見ていなかった。
朝起きて、いつもどおりトイレに行ったあと、ロビーで窓の外を見た。そのときのことしか記憶になかった。
そしてその記憶の中では、雨は降っていなかった。僕の中では、今日はくもりだった。いやひょっとすると、一時雨だったかもしれない。


渡りを抜けて検査病棟について、また驚いた。
まずベンチがたくさん目にとまった。その奥に複数のエスカレーターが見えた。照明も暗めだ。スーツなんか着ている人がたくさんいた。
眼科の受け受けには事務服を着たおねえさんがいて、明るく照明されたカウンターに立っている。

なんだか、まるで馴染めない世界にいる、僕はもう一度そう思った。
まるで空港みたいだ。

(これから僕はどこかに行くのだろうか?カウンターに行って、搭乗手続きを済ませるのだっけ?)

「ヤバいすよ。僕、パスポート持ってくるの忘れちゃいましたよ!」
「アンタ、何言ってるの?!」
僕がそう言ったら、Aさんは笑った。

検査は受付からさらに進んだ、奥にいくつもあるブースのひとつで行われるようだった。
いくつも並んだブースはまるで、ユニバーサル・スタジオの「バック・トゥー・ザ・フューチャー・ザ・ライド」の入り口のようだった。何か中で特別なエンターテイメントが行われているような気がした。

(ポップコーンとペプシコーラで3ドルぐらいだっけ?待ってる間に買ってこようかな?)

いくつかあるベンチに側づけされて僕の車イスは置かれた。
有線放送がかかっていた。エルヴィス・プレスリーが出てくるようなころの映画音楽をオケとピアノで演奏しているような類のものだ。
その音楽を聴いて、まるで空港みたいだ、と僕はもう一度思った。ここが出発ロビーでなく、自分が片手に搭乗券を持っていないということに、僕は再度違和感を感じた。


検査を待っている間、僕は雑誌を読んだ。TV雑誌と一緒に友達が送って来た経済大衆情報誌だ。
これにも、たまげた。まるで別世界のおとぎ話だった。

その雑誌は、要するにひとことで言えば、欲望とアドレナリンと緊迫感のオンパレードだった。
表紙からはじまり、広告、目次、記事、全部が全部そうだった。
その雑誌の紙のサイズ、重さ、質感、記事の内容、フォント、各ページの概観、使われる写真、挿し絵、表、グラフ、その大きさ、色合い、割つけ、すべてがすべてそうだった。およそすべてが欲望とアドレナリンと緊迫感に満たされていた。

僕は最初のうちは、例えばその雑誌に次々に登場してくる人物たちの、
「いかにこの人物は欲望的でアドレナリンが充満していて緊迫した人物であるか」
とか、
「この人物は普段アドレナリンが充満しているにもかかわらず、いかにこの場ではこうしてその臭いを消しているかのように装っているか」
ということを強調したとしか思えないような写真なんかをしばらくの間なんとかがんばって見ていたのだが、ページをめくっているうちにそのうちどうしたらよいのかすっかり分からなくなってしまった。


検査の結果は「何事もなし」だった。そりゃそうだろう。結局、手間をかけて別世界を見て来ただけだ。

迎えに来たのはSさんだった。おもしろい人で、僕は彼のことが好きだ。TOTOをちゃんとやっていたとき、エレベーターに乗れない僕のかわりに階下の売店でスポーツ新聞を買ってきてもらうよう、僕は主に彼に頼んでいた。
彼はいつも快く喜んで引き受けてくれる。そして、
「はい、こねさん!買ってきましたよ!」
と、うれしそうにスポーツ新聞を持ってくる。


僕があのスポーツ新聞社にしつこく
「やる気があるのか?」
と問い合わせようと決めたのには、ひとつには彼のことがあった。

(このスポーツ新聞に、どう対処しよう?)

ひどい間違いをそのスポーツ新聞に発見していろいろ考えたとき、そのスポーツ新聞の紙面とひっかかって浮かんだもののひとつはそれを持ってきてくれた彼の顔だった。

彼は僕に喜んでもらおうと、動きの制限された僕に代わって、いつも快く仕事を引き受けてくれるのだ。
僕が質の悪いスポーツ新聞を選んで不満を持つということは、要するに間接的に彼の仕事の質を落とす、ということでもある。

そう思うと、やはり僕は抗議しないわけにはいかなかった。


検査をしたのは渡りのあるのとはまた違うフロアだった。その建物のエレベーターに乗って、僕らは移動した。
エレベーターから見えてくる風景は、区画された緑、僕が入っている規律正しそうな建築物である入院病棟、濡れたアスファルト、そこを歩く人、すぐ病院の前の街道であった。

(どこかで、これに似た風景を見たな)

僕はちょっと考えて、その風景が、やっぱり僕が最初の海外旅行の最後、ロサンゼルスで泊まったホテルの周りの風景に感じたイメージとよく似ていることに気がついた。


僕は、僕が思ったことを彼に話した。
「2週間ぶりですか?ははは。そりゃ、びっくりするかもしれませんね。」
そう言って彼は笑った。

渡りを抜けて、入院病棟に戻って来た。ガラスには雨が強く打ちつけている。

「空港ですか。そりゃ、そんな感じかもしれないすね。フランスの、ドゴール空港だったかも、こんな感じですよ。もう、ね。」
「へぇ。フランスですかぁ。Sさん、フランス行ったことあるんですか?」
「そりゃ、もう、僕はフランス大好きですよ。あんないいとこ、一生住みたいです。」

そう言って、彼はフランスが好きそうに笑った。

「フランスは、ね。食べ物が旨いんですよ。特に、ハムが旨いんですよ。もう、こういう、ほら。」
そう言って、彼はいったん車イスを動かす手を止めて、僕の横までまわりこんで両手で何か大きさを示すような形を作って僕に示した。

「ハムかあ。」
「そう。ハム!もう、味が違うんですよ。ぜんぜん!」
彼は、フランスのハムの旨さについての説明をはじめた。

僕は、むこう側のエレベーターが着いているのを発見した。
「あ、Sさん。エレベーター、来てるよ。」
「あ、あーあー。」

エレベーターに乗り込んでからも、フランスのハムの旨さについての彼の話は続いた。

01/06/07


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