電気ポセイドン

電気ポセイドン


最初目が覚めたのは2時48分だった。次に時計を見たときは3時38分。ようやく起き出したのは4時48分ごろだった。それぞれの間で、ちょっとずつ記憶が継続していない。きっと寝ていたのだろう。

昨日は夕食を食べたあたりから、えらく無気力な時間が続いた。何が理由かは分からない。延々とそういう時間が続いたのだが、無気力だからナースコールをする気も起きない、と思っているうちに夜の検温になった。そこで看護婦さんと話をしてすこし生気をとりかえした。
結局そのあとはそれなりでそれきりなんともなかったのだが、その検温のときに測った体温は、ここ1ヶ月ぐらいなかったぐらいに低い温度だった。看護婦さんと話をした直後ぐらいはまだ無気力だったので、ミンザイをもらうなりさっさと飲んでしまった。


ロビーで日記を書いていると、Nさんが大部屋から顔を出すのが見えた。彼は、さいきんこのぐらいの時間によく起き出してトイレに行く。今日もそれだろう、と思った。時計はもう6:30に近づこう、というところだった。
しばらくして、Nさんがこちら側の通路から現れて来た。トイレの帰りに、ついでに体重を量りに来たらしい。ある意味、普通の腎臓内科の入院患者の朝の行動である。

体重の計測が終わると、彼はこっちに歩いて来た。
彼は点滴の道具のぶらさがった金属製のパイプを左手に持っている。「ポセイドン」だ。
ただし、彼の「ポセイドン」は、普通の「ポセイドン」とはちょっと違う。

彼の持っているポセイドンは、いわば「電気式ポセイドン」とでも言うべきものだ。
通常のポセイドンと同様に点滴パックがその三つ又のヤリの先端についているが、そのポセイドンの中央には、まるで郵便受けのような大きな箱がついている。そしてその大きな箱には、いくつかの電光表示とリモコンがなかったころのテレビのチャンネル切り換えスイッチのようないくつかのスイッチ、それだけではなく、さらにボーリングのピンを頭から埋め込んだようないくつかのスイッチがついていた。
どういう仕掛けなのかは知らないが、彼の場合、点滴はきわめて適正になされなければならず、そのためにはこの郵便受けが非常に効果的なのだ、ということらしかった。

この郵便受けが、またよくしゃべる郵便受けなのだ。
この郵便受けの役割というのは点滴を適正になすことが主なのだが、なんらかの事情で点滴が適正になされなくなったときには、あまり自分で調整することができないらしい。
そのかわり、
「ピピッ、ピピッ!」と、
「自分ではもうどうにもならん。看護婦さんに来てもらってなんとかしてもらえ。」
という趣旨の音をくりかえし発するのである。
そうすると、彼がナースコールを押して、
「点滴、鳴ってるんですけど。」
と発言する。そうすると看護婦さんがやってきて郵便受けの主張を聞いて、とりあえず黙ってもらって、点滴を調整しなおして、帰る。
それがまた、案外頻繁にある。昼夜を問わずある。彼がちょっと動いたり、というきっかけでもそうなることがあるらしい。せっかく看護婦さんが処置を終えた、というときにまたすぐ鳴り出すこともある。
この郵便受けが彼の治療に導入されたばかりのころは、特にすごかった。

僕は特別気にはしていなかったのだが、彼にはそれがしょっちゅ鳴るのが結構気になっていたらしい。
「ホント、コイツハッ倒して暴れてやろうかと思うことありますよ。」
なんて、彼がOさんに言っているのを一度聞いたことがある。
ステロイドを大量投与しているために気分が高揚しやすくなっている、というのもある。
本人もそれが分かっているから、
「ま、やるときはここじゃなくて、ロビーに行きますけどね。」
なんて言って笑っている。

しかし、この郵便受けを使った治療を開始してから、彼の状態は最近良好への一途を辿っている。体重もどんどん減ってむくみも取れて来て、見た目もスリムになって、迫力もなくなってきた。食事もどうやらよく食べられているようだ。

状態が良好になりつつあるときに機嫌がよくならない患者がいないわけがない。
彼もまた、さいきんいつも上機嫌である。

Nさんが隣に座って話しかけて来た。僕はCDのイヤホンをはずした。
「おはよーす。」
「おはよーす。」
「これ、うるさい?悪いね。いつも。」
電気式ポセイドンのことだ。僕は気にしないから平気なのだが、やはり本人は気になるらしい。
「夜中なんかも、鳴っちゃうじゃない。ホント、悪いなあ、と思って。夜中に起こしちゃったりとかしちゃってさ。」
「いや、ホント、ぜんぜん気になんないっすよ。」
本当に気にしてなかった。彼のポセイドンから鳴る音は十分良心的な音だ。
僕にとっては、たとえば先生が持っているポケベルが病室で鳴り響くほうが、よほどレアケースな一方でよほど気になる。

車イスに乗れるようになる前に、隣のKさんにも言われたことがあった。
「ニオイがしたり、音がしたりするのが悪くってね。」
当時の彼はベッドから動けなかった。当然、用を足すのもベッドの上だった。
そう言われてみたのだが、実はこれも僕はまるで気にしていなかった。隣のベッドで彼が何をしているかなんて、ほとんどの時間気にしていなかったし、彼が消臭スプレーを使う音で、僕はようやく隣のベッドの事情に気がつく、ということがほとんどだった。ニオイなんかも、してきたことがなかった。

ベッドの仕切りのカーテンがそういう作りなのか、空調がいいのか、彼がナースコールをしたあとの看護婦さんの手際がよいのか、現代の消臭スプレーがそれだけ優秀なのか、僕が鼻がわりと弱いほうだ、というのもありそうなのだが、とにかく、隣のベッドで彼が用を足す、ということが僕にストレスになったことは一回もなかった。匂いといえば、むしろ消臭スプレーの爽快なに匂いの記憶はある。

ただ、僕がそう言っても、それでも彼は納得しないで申し訳ながっていた。

Nさんにポセイドンの音の話をされたついでに、僕はKさんの話を持ち出してみた。
「そうだよなぁ。オレもKさんに同じこと言われたけど、ぜんぜんそうは思わなかったなぁ。」

「夜中なんかさ、オレがナースコールすると、看護婦さん、懐中電灯持ってウロウロしにくるじゃん。明るくなっちゃったりして悪いかな、とか思うと、やっぱりいろいろ気にしちゃうんだよね。」
それでもこのあいだ夜中に点滴がはずれていてベッドが血だらけになったときには気持ちが悪くなってどうしたこうしたとか、彼はそういう話をした。

「いや、それ言ったら、僕だってずーっと、キーボードカタカタ鳴らしてて、いいんかな、なんて思ったりするんですけど。」
「いや、こね君の場合は、それはいいんだけど、ちょっとひとり言が多いかもしれない。」

(ウゲ。)

確かにそのとおりだ。

「まーみんな、弱ってるからね。弱ってるから入院してるわけだし。それより、さあ。こね君、今食事どのぐらいなの?」
「2,000すよ。」
単位はキロカロリーだ。
「そうだよなぁ。やっぱり、オレのほうが多いよなぁ。このあいだ、『食パンが2枚出てきた、おかしい。』とか言って、確認してたでしょ?オレ、いつも2枚だからいいのかな、とか思って。」
ずいぶん昔の話だ。
「ああ、なんか、一時期、体重減りすぎだから食事の量増やしましょうって、2,200になったんすよ。それで量が急に増えちゃったからびっくりしちゃって。ま、念のため、とか思って。だって、びっくりしますよ。ヨーグルトとか出て来たんですから。」
「え?ヨーグルト、出てないの?オレ、毎日出てるよ。どうしてなんだろう?」
彼と僕は要するに同病だ。しかも症状としてはおそらく彼のほうが深刻だ。
「いや、わかんないすけど・・・。でも、僕も量多くて食べきれない感じだったし、ちょうど病気もぶり返してきちゃったから、結局『やっぱ減らしましょう』なんていうことになって、減らしてもらったんですけど。」

僕は続けた。
「でも、Nさんも、さいきん食事食べれてますよね。食欲も出てきて、よかったですよね。」
昼とよるの検温の時には、看護婦さんから「食事はどのぐらい食べましたか?」と質問される。
彼の答えは僕が大部屋に移った当初は「サンブンノイチ」とかが主な回答だったが、さいきんは「全部」なんていう回答が聞かれることもよくある。
「そうかぁ。。。ま、実際食欲もあんまりなかったんだけどさ。イヤ、俺も、こね君の話聞いてて、『オレ、こんなに食べちゃいけないんじゃないかな』とか思って、食べないようにしてたんだよね。」

(ナニ?)

食べたくても食べれない、という「サンブンノイチ」ではなかったのか。
それにしても、聞いてないようでよく聞いてるな。お互い様だが。

「週3回血液浄化センターに行くじゃない。オレ、ただでさえ血圧低いのにさ。ホラ、こね君なんか、いつも130-80とか言ってるじゃない。オレ、100切るんだよ。なのに、アソコ行くとさ、血液いったん外に出してやるから、また血圧下がっちゃってさ。そうすると吐いちゃうんだよね。そのあとやっとメシ食えるようになるのが次の日とかでさ。それからもう一日経つと、またアソコ連れてかれて。」

僕の血圧の数字までをいつのまにかに把握しているとは。
僕だって、ちゃんと把握してなかったぞ。

「でも、だいぶよくなってきてるからね。こね君も、入ってきたころとはもうだいぶ感じが変わっちゃったけど。」
と言って、彼は笑った。彼の発言は僕がむくんでいたころのことを指していた。ぶくぶく。

「いや、でもさいきん痩せすぎちゃって。体重、さっき量ったらついに60きってましたよ。」
今朝の体重は、59.85kgだった。入院当初と今とでは、体重はもう20kgぐらい違うことになる。

「オレは、64だった。そのうち追いつくよ。身長もこね君のほうがちょっとあるし。ま、競争じゃねぇけどな。」
そう言って、彼は笑った。
Nさんはさいきん急速にむくみが取れて来ている。まんざらない話ではないな、と僕は思った。

「いや、でも、こね君が『パジャマの下見たくない。』とか言ってるの、オレも解るよ。オレも・・・」
彼がそう言いかけたところで、電気式ポセイドン付属の郵便受けが「ピピ」と音を鳴らして、緑のランプが消えた。

「あ、バッテリー切れだ。カラータイマーみたいなモンだからな。」
そう言って、彼は笑いながらロビーのソファから立ち上がってナースステーションのほうに歩いていった。

(『パジャマの下見たくない。』なんて、彼の前でいつ言ったかなぁ?)
彼の後ろ姿を見送りながら、僕はちょっと記憶を辿ってみた。

01/06/22

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