41番

41番


ロビーに出たのは4:30ごろだった。

今日こそ雨なのだろうか、でも早い時間だから暗いだけなんだろうな、と、僕は思った。
空を見てみた。そんなに雲があるようには見えなかった。
僕は日記の最初の行に今日の日付と曜日、今の時間を書いて、「はれ。」と書き足した。

「毎日晴天だ。」
日記の最初に書かれたのは、そういう一行だった。


日記をあらかた書き終えたところで、ロビーのテレビの横の古雑誌籠に週刊モーニングが置いてあるのを発見した。僕は、それを取ってきて主なマンガをひととおり読んだ。
読み終わって、また日記を書き足して、また読んだ。
2回読んだマンガはほとんどなかった。

ロビーに持って来ていたものは、日記帳にしているノートの他にCDプレーヤーとCD、NHKラジオスペイン語講座のバックナンバー、NHKで今やっている「茶の湯」のテキストだった。
どうしようかと思ったが、僕はとりあえずCDを聴くことにした。昨日の夜中にかけたままの、モーツァルトの40番のCDがプレーヤーに入っている。他のCDは3枚しか持って来ていなかった。僕はそのまま入っているCDをかけた。

40番を聴いているとき、僕が座っているソファのすぐ横にある鉢に植えてある蘭の花に目がとまった。僕は植物には疎いのだけど、これはきっと蘭だろう。
その花は花茎がほぼまっすぐに伸びているかと思うと先端部のみにわかに180度湾曲していて、逆に花の部分でオレンジの花弁が花茎の側にそりあがって、まるで茎の側に大きく開いた花として咲いているかのような印象を与える形をしていた。雌しべやら雄しべやらは、本来の花のところからみなあさっての方向にひろがり、ガクのような形を形成していた。

その形状にどういうメリットがあるのか、僕はしばらく考えていた。花は多少空調の吹き出し口からの冷気を受けている部分もあり、そういう花は若干花弁が弱っているような印象があった。

40番が終了して、41番になった。このCDには、2つの交響曲がセットになっている。
僕は、そのまま41番を聴きつづけた。

モーツァルトの40番は名曲ですね。疾走する悲しみ、などと言われる1楽章が有名ですが、他の楽章もいい曲だと思う。ついでに41番も僕は好きなんだけど・・・4楽章のドッペルフーガ(同じ旋律の追いかけっこ(×2))も楽しい。

このあいだ、友達からメールをもらった。彼はオケをやっていたか、今もやっているかだ。
このあいだのN響アワーのあとに聴いた「ジュピター」の冒頭の部分のことが気になっていたところだった。
(というより、もともと彼のメールは僕がHPに書いた話題に関連してのものだったのだが)

そうして、41番を違和感なく聴いている自分がいることに気がついた。というよりむしろ、心地よくなっていた。前はまるで聴く気のしなかったものだ。僕はへぇ、と思った。
背後に見える人間がどう、とかではなくて、純粋に音楽として楽しかった。もちろん、これにも彼がよく見えてくるとは思う。
プレーヤーは全曲自動再生に設定されていたが、僕は40番はもう聴かないで、41番ばかりを連続して3回ほど聴いた。

何が変わったのかははっきりしない。どうせすぐにははっきりしないだろう。
さいきん連続して彼の交響曲をいくつか聴いているから、40番に固定されつつあったイメージが変わって来ているのかもしれない。
極端な話、僕には、彼の作品群には、40番より前に作られたもの、40番の後に作られたもの、という分類さえあれば十分なのではないかとすら思っていた時期があった。
まあ今でもやはりそういう気はするのだが、いちばんそう考えていたころよりはその考えは今の僕の中ではドラスティックではない。

僕自身が自分に強い関心を持っていた時期だったのだと思う。
病状のほうは、先週から薬を減らしてみて、どうやらそれでも問題なさそうだ、というところに来ている。点滴で治療再開、という話になって以来のところまでやっと戻って来たというところだ。いざ薬が減ってみて大丈夫だとなってみるまでは、僕には自分の内側に向かっている時間が多かったのだろう。
そして、40番のどこかに、それと強く協調する部分があったのだろうと思う。
40番から僕が感じていたのは、言葉では表現に限界があるが、要するに「強烈な自己への意識」だった。

誰を見ても、何を見ても、何を聴いても、結局持つ感想というのは自分のことだ。それはもう分かっている。感じるのは自分で、自分がそう感じるというのは自分にそういうことを感じるレセプターがあるということだ。レセプターを持っていないもののことは人は何も感じない。
「めいきんぐ・おぶ・びよらじょーく」でも書いたけれども、人は、自分の知らないことまでは書けるものではない。

自分が感じたことを見ていけば、きっと自分がどういう人間なのか分かってくるし、感じた通りになんでも書いてしまえば、結局自分自身について書いてしまうことになる。
誰についてでも、何についてでも、持った感想をそのまま書いてしまえば、それは外に対象を求めている形にはなるけれども、結局僕自身について書いていることになる。
もう分かっていることだった。

もっとも、さいきんの僕の気分嗜好の傾向の変化というのが、使っているステロイドの量が減ったことで気持ち的に落ち着いてきている、というだけのことなのかもしれないが。
そうすると、僕の気分感情はこれからどうなっていくのであろうか。
今の僕もそれはそれでおもしろくて好きなのだが、今後には今後で、また別の興味があった。

41番の3回目が終わったところで6:30になった。窓の外を見てみた。意外なことに、空は曇っていた。
僕は日記の最初の行の「はれ。」と書いたところに、「いや、くもりだ。(6:30)」と新たに書き足した。
どうしようか、と僕は迷った。
今日はハングル会話の日だ。必ず見ると決めている番組でもないし、見るにしても途中から見れば僕の目的はだいたい達せられる。別に急いで部屋に戻る必要もないかと僕は思った。

でも、もうちょっと考えてみて、部屋に戻ることにした。
「あなろぐのいず」のサッカーテレビ観戦記のシリーズは予想外に好評だ。
昨日アップした「キリンカップサッカー 日本-ユーゴスラビア 」への反応をちょっと調べたい、と思ったのである。

体重を量って、部屋に戻った。60.25kg。最近どおりの安定した体重であった。

01/07/06

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